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中山城

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中山城

 

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場所

 

築城年 室町時代?
築城主    岡本豊前守

 

鍋山城攻略時に靴がグズグズになってしまい、なんちゃってクロックスで見物に出かけたけれど、ちょっと甘かった。。。遺構は国道41号線に面した小山の二つのピークに残っているようだけれど、そのピークに抱かれた畑あたりで城見物は断念。

 

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左右(南北)の郭を結ぶ土橋。。。まではいかないけど痩せ尾根、向こう側には保育園があるよ。

 

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南の山は等高線を描くような段々ができているけれど、遺構というより、段々畑が山林化したものと考えた方が良さそうだ。


畑館

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畑館

 

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場所

 

築城年 室町時代初期?
築城主    畑氏

 

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高山市の江名子地区は、美女峠を越え、朝日や高根地区を抜ければ、野麦峠や長峰峠を越えて木曽に迎える土地、今は廃れてしまったけれど、旧木曽街道が走っており、その街道に沿って、睨みをきかせるというより、ズドンと構えていた館跡です。往時は水堀やらに挟まれた土地と記載がありますが、居館的性格を持ち合わせて地勢に位置しています。

 

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三木氏に臣従し、武勇名高い武将だった畑休高が、松倉城の籠城戦の際、金森家の家臣に一騎打ちで討ち取られてしまい、籠城側の士気を大きく削がれてしまったそうです。彼を追悼する碑が立っています。

 


鍋山城

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鍋山城

 

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場所

 

築城年    天文年間
築城主    平野豊後守安室

 

血塗られた飛騨の戦国時代の一ページの舞台、鍋山城に行ってみました。

 

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武田や上杉、織田のような勢力が大勢力化してゆく16世紀後半、飛騨では小さな勢力がしのぎを削りあって統一が遅れ、大勢力は彼らの相剋を利用して飛騨に侵入、そして併呑。外の力を利用し、恨みつらみを内包しながら強引に飛騨を統一した姉小路/三木氏も秀吉時代になった時の勢力図のオーバーラップで金森氏に追われるという歴史をたどりつつ、飛騨は江戸期に突入、雪深い山岳地帯であったがため、そういった歴史は、現在の飛騨それぞれの地域性や人の考え方にもかすかに残っているように感じます。

色々あったにせよ金森氏がありがたがられるのは、わさわさしていた状況をがツーンと落ち着かせ、その後、飛騨がたことにあるかもしれません。

前置きが長くなりましたが、鍋山城。

 

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Google Mapで四天王社を目指してください。細道になりますが、境内の脇に車を停めるスペースがあります。その脇に獣避けの鉄柵と扉があり、「鍋山城へ」の表記。しばらくなんでもない(いや本丸まで?)山歩きとなりますが、林道などと合流しつつも頑張って登ってみてください。そうすると二つの山に抱かれた谷のような箇所があり、そこからさらに登ってゆくルートがあります。

 

正直、山歩きとしては楽しいのですが、金森氏が高山城を築く前に拠点として使ったような技巧は感じられず。残念。三仏寺城や松倉城を見物した後ではちょっと頼りなかったです。

 

 

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鍋山城は街道が交差するような場所からは少し外れている上、城の周辺の土地の広がりは、松倉城や高山城に比べて頼りなく、廃城になったのもやむを得なかったかもしれません。

 

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堀切

 

本丸方面は問題ないのですが、出丸方面の間伐が過激に勧められており、雪が降ったこともあって、攻め登るのに難渋しました。見所は、本丸に僅かながら残る石積みと、石積みに接した箇所に残った土塁、他の城ブロガーの諸先輩方が記載されているように、出丸方面の堀切と、出丸と本丸をつなぐ細い土橋でしょうか?

 

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道無き道を這い上っていると、ニホンカモシカに出会ったりなかなか楽しかったですよ。ポールやストックを持って登城されることをお勧めいたします!


鮎崎城

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鮎崎城

 

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場所

 

築城年 不明
築城主    鮎崎氏?

 

天正13年(1585年)羽柴秀吉の命によって、飛騨に攻め込んだ金森氏はここに陣を構え、姉小路/三木氏最後の拠点、松倉城を攻めたそうです。

 

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現在の鮎崎城は北山公園と名前を変え、公園の半分は軍人墓地となっており、明治以降の石積みでガッチリと固められ静かな佇まい。公園化が進んでいて、往時の城の雰囲気は想像の翼を広げるしかありませんが、三仏寺城、鍋山城、松倉城、中山城、上枝城など、高山盆地の中心の見晴らしの良い場所に位置しており、宮川と大八賀がに挟まれた要害で、崩落防止やら、崖だよーな地形。中世に城がないわけがない場所。

 

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本丸で、熟れきった銀杏の上下からの攻撃に遭ったけれどいい気分。


三仏寺城

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三仏寺城

 

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場所

 

築城年 平安末期
築城主    平時輔

 

飛騨で最も古い城郭の一つということと、この近くの現在は「三福寺」という在になっている方からご紹介いただき、登城ルートなどもあっさりわかってありがたい。その三福寺在住の方は、うちのお店に来てくださって以来、トラックを貸していただいたり本当によくしていただいているのですが、「飛騨の歴史」などの本に加え、なんと「飛騨の城」という本をお貸ししてくださって、城熱復活なのです。

 

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最近は雪が時々降るようになり、城めぐりもなかなか難しくなっていきそうですが、本当に色々な方に世話になり、飛騨最高!もうこうなったらスノーシュー履いて、空堀やら竪堀やらに突っ込んでいこうと思います。

 

さて、三仏寺城。三福寺という地名や、三福神社とどのような関係になっているのかは、また後で勉強することにして、歓喜寺から案内に従って、擬木できっちり整備された登山道を登っていくこと10分。典型的な連郭式山城が現れます。武田家の侵入まで城主をいただいていた城で、現在の高山の中心地がある平かな場所と、丹生川方面の信濃地方からの交通に睨みを効かせられるよう、尾根にいくつもの削平された曲輪が残っています。

 

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曲輪に土塁の高みなどが残っていれば。。。と思ったのですが、見る限り、腰曲輪などが配されている程度で、たくさんの郭が連結している以外に、技巧はそれほど感じられませんでした。

 

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でもまあ、その辺りの細かい城用語は抜きにして、案内板にも記載されている、木曽義仲に攻め落とされた、という記載や武田氏の侵攻時に城主が火をつけたなどというのは、濃淡はあれど、平安末期から、戦国末期までこの城がなんらかの役割を果たしていたとも言え、なんとなく程度の使われ方としても、400年間は現役の城だったんだなぁ、なんて思いながら、松倉山の方を眺めながら、思いに耽りました。

 

お城に興味のない方でも、気持ち良いトレッキングルートかと思います。城へ続く道の細さと頼りなさがまた良い!

秋から冬にかけ、見晴らしが良くなる季節には、鍋山城や鮎崎城、高山城、松倉城を見渡し、なぜか餃子の「王将」を城の上から罰当たりですが見下ろすこともできます。
 


松倉城

 

 

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松倉城

 

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場所

 

築城年 1579年 天正7年
築城主  姉小路(三木)自綱

 
細かい記述はしっかりしたブログにお任せすることにして、織豊時代に信長方となった飛騨の姉小路(三木)自綱の城。信長の死の混乱の中で飛騨を統一した三木氏でしたが、佐々氏と宜を結んでいたために、秀吉の家来である金森氏に責め立てられ、この城の築城から6年後の1585年(天正13年)に滅亡しています。

 

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金森氏は、不便な松倉山を見限ったのか、標高が低い現在の高山城に築城し領国経営を始め、松倉城は廃城となったようです。

 

軽い気持ちで出かけたのだけれど、後ろを歩いている妻を放置プレイしてしまうくらい感動的な石垣が現れ、織豊時代とはいえ、これだけの石垣の城が築かれるって、飛騨は山国とはいえ、京都や当時の日本の中枢に近いわー。となんだか深く感じ入ったのでした。

立派な石垣の割に、周囲の縄張りが貧弱なのを「飛騨の人口が少なかったため」守り手が控えられる曲輪群が必要なかった。。。という記述を残しているブログも見かけましたが、その通りかもしれません。

 

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飛騨の国盗り物語の過程で、激しく国人衆をひねり潰して行った三木氏はなんだか今の飛騨高山であまり人気がなく、金森氏が一番親しみを持って語られるような気がしますが、松倉城の石垣とそこからの北アルプスの眺めは天下一。飛騨の城巡りを始めるにあたり、一番美味しい城を真っ先にせめおとしがことで後々後悔することになるかもしれないけれど、初めて訪れた時の感動や、連れて来た外国の友人がことごとく喜んでくれるだけで、今後も飛騨の宝になってゆくでしょう。


 


小出城

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小出城

 

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場所

 

築城年 鎌倉時代後期
築城主    小井弖氏(こいで)

 

下調べの段階で、なかなか良さそうだったけれど、近づくにつれて漂ってくる典型的な中世城郭臭がビンビンな地形にうっとり。

 

伊那谷の中世城郭は天竜川の河岸段丘沿いに点在しているけれど、この小出城は、天竜川に注ぐ支流が形成した自然の谷と空堀を組み合わせた縄張りで、やんわりとした主郭な割に、南側河岸の断崖は切り立っているし、東西の堀切もくっきり。現在はだらりと油断した印象のある北側にも、自然の谷をさらに加工した堀が走っていたと主郭の案内板にある。

 

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一番ビリビリきたのは、城の西の連続空堀/二重堀切。正直、正直。。ノーマークな城だったけれど、すごい。鋭い角度ののまま堀切が、ズドーント南の谷に落ちていく。これは、東側からの攻め手もたまらない。

 

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ということでエア攻城は東の高みから。。。と思い、遺構的なものを探ししてフラフラしていると

 

「何してるの?」

 

とどちらかというと不審者を咎めるようなお声がけ。どうやら地元、それも土地の所有者の方。

 

「木曽から出てきてお城を見て回っており、立派な堀切に驚いている。」「伊那の城は皆こんなに立派なの?」なんて逆質問。

 

整備された主郭で、地元の方と草刈りをしたりした方のようで、市議会議員さん。主郭で見た地図に「堀」という地名があったがとお聞きすると、権兵衛トンネルを掘った土で埋めてしまったとのこと。今考えるともったいないが、薬研堀のような鋭角な堀だったそうだ。このあたりは字が「城」で議員さんのご実家の屋号にもなっていたとのこと。こちらの名刺は先月で役目御免となった木曽の観光関連の名刺なのだけれど、その旨伝えた上で交換させていただいた。

 

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さあ、エア攻城。

 

木曽運び屋軍団としては、弱点は高所である西側と台地が繋がっている北側から飛び道具を浴びせながらジワジワと一つの郭を慎重に落としながら攻略する。小出城の城兵は、ちろちろ少数で打ちかけてくるが、まとまりがなく他愛がない、それらの敵を各個撃破し、本丸に運び屋軍団の旗を打ち立てる。

 

 

 

なぜだ?小出城。いくら弱点から攻めたとはいえ。。そうか、城の名前が小出じゃないか。兵力を小出しにするのは、戦の悪手。嗚呼、この城は自ら呪いをかけてしまったようだ。


木曽義仲館

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木曽義仲館

 

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場所

 

築城年 不明
築城主    不明

 

木曽町ができる際に合併したまちの一つが日義村。

 

朝日将軍木曾義仲が平家討伐の旗挙を行った地であることから義仲にちなんで「日義村」と命名され、

 

wikipedeiaで出身の有名人を調べると

 

出身有名人

 

    木曾義仲−平安時代の武将。源頼朝の従兄弟。

 

    中原兼遠−平安時代の武将。木曾義仲に仕えた。木曽四天王の一人。

 

    巴御前−中原兼遠の娘。

 

なんて出てくる。出身地というか、由来のある有名人だけれど。

 

徳川の祖である松平氏のような、山奥から平野にエイヤ!と出て、力をつけた一族が山から出た時に一気に版図を広げるようなケースはあるけれど、木曽から信州日本海を経て一気に京都に攻め上って平氏を追い払ったというのは、今の木曽に暮らして、乏しい生産力からするとなんだか怪しい気もする。翻って、その生産力の低さや環境の厳しさと京都に攻め上ったことのギャップは物語であると思うし、なぜ「木曽」という名前が旗印になったかを追ってみるのも面白そうだ。

 

なんて思い、いつもそばを通っている館跡と呼ばれている

 

伊那市の議員さんに「木曽は仕事がなくて大変だろう」と心配され、「いやいや、木曽もなかなか悪くないですよ」と答えた手前、なんだかスルーする気になれなかったのだ。

 

が、イマイチである。平安末期の居館があったとされる場所も、要害を頼むでもなく、方形の土塁が残るわけでもなく、ただただ、「挙兵の地!」みたいなのぼりが氷雨に打たれるだけの寂しい景色。町の広報誌に「義仲くん!」みたいな1ページの漫画が挟まれることはあるけれど、木曽義仲や平安末期の木曽がどのような場所であったのかにフォーカスする様子はあまりない。合併前はいろいろあったのだろうけど。

 


春日城

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春日城

 

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場所

 

築城年 不明
築城主    不明

 

築城年数は不明ですが、武田氏が版図を広げる中で、一旦はこの城に篭って抵抗の姿勢を示した伊那部氏でしたが、他の伊那の豪族とともに帰順したようです。武田氏が南信濃を抑えた1556年に反旗を翻したものの、すぐに抑えられ、伊那部氏は滅亡。その後は武田氏の伊那谷の拠点だった高遠城の支城システムに組み入れられ、織田軍の信濃侵攻後落城、廃城となったようです。

 

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高遠城に負けず劣らず、見事な桜の大木が三の丸、二の丸、本丸に植わっています。

 

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鶏口となるも牛後となるなかれ!と反抗した伊那部氏、絶望的な戦いであった織田軍の侵攻。この城の近くで今とあんまり変わらない山の景色を見ながら散っていった人に想いを馳せながら、花見酒も良さそうです。

 

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さて、エア攻城。

 

桜の夜、忍びを放って、伊那節を麓の衆に歌わせる。

 

「木曽へ木曽へと つけ出す米は
伊那や高遠の
伊那や高遠の なみだ米
ア ソリャコイ アバヨ

なみだ米とは そりゃ情けない
伊那や高遠の
伊那や高遠の あまり米
ア ソリャコイ アバヨ」

 

直訳すると、

 

「伊那谷にはいらないっていうくらい米があるから、貧しい木曽の衆よ、お前らに分けてやる。」

 

この伊那節を聞きながら、これまた西側の高所、三の丸から二の丸、そして本丸に一気に攻め立てる。伊那節で踊っている城兵のお留守になっている足元を狙っていこう。

 

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「くそ、どうでこっちにはホームセンターだって、コメリしかないし、日用品は高いし、ガソリンも独禁法まがいな価格協定がしかれてる。それに比べて、伊那衆よ、おまえらは。。。そんな踊りを踊りやがって」

 

といった感じで、戦闘力が3倍になる。伊那衆と木曽衆が戦っている場合じゃないのになぁ。

 

なんだか武井壮さんの猛獣の倒し方みたいになってきた城カテゴリ、次のお城はどうなることやら。


小黒城

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小黒城

 

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場所

 

築城年 不明
築城主    不明

 

ふれあい爽やか、エイヴィデイ。

 

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これまた綿半から程ない距離にあるお城。お嫁さんがじっくり買い物している間に中世城郭を楽しめるのは、開発が程ほどの地方都市ならでは。お城は天竜川の大河岸段丘が、小黒川の渓谷で絶たれる、南と東が断崖になっている地勢で、かつ、伊那街道を見下ろす絶好の土地。中世城郭のセオリーに沿った場所に築城されています。

 

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綿半の裏の小黒川北岸の道をゆっくり流していると、石材店の裏にがっつり空堀が掘られているのが視認でき、段丘側から先端部を目指して空堀跡を利用した小径にたどり着くと、見上げるような高低差。空堀をうがった残土を主郭側の土塁に利用したんだね。と主郭跡に入ればわかります。いやぁ、この小黒城。宅地造成が進んで往時の城の全容はつかめないけれど、主郭周縁の土塁の状態は素晴らしい。綺麗に残ってます。

 

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小黒城を攻めるとしたら、やは近くのAPITAや綿半で、卵や豆腐、もやしといった日販品を「お一人様1店、10円セール」で売り出し、城兵総出で兵糧を買いに出かけ手薄になったところで、攻め落とす。これしかない。自らが守り手になった時、「お一人様1店、1円セール」や夕方になると、もともと60円くらいで激安な握り飯がさらに半額になったりするから気をつけないと。


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