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藪原砦

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藪原砦

 

築城年 天文二十四年(1555年)    
築城主    武田晴信

 

 

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木曽谷に風雲、急を告げる!

 

となったのは、信濃に侵攻した武田軍が、上杉軍の圧迫を抑える余裕が出た川中島の後。一気に攻め落とされはしなかったものの、武田軍は木曽に深く浸透し、木曽氏は降伏する。武田氏の版図に組み入れられた木曽は武田軍の一員として活躍するが、勝頼の時代になって武田家が劣勢となった後に離反、当主木曽義昌の母、嫡男を処刑され、再度武田氏と敵対することになり、木曽に侵攻してきた武田軍をこの鳥居峠で迎え撃っている。

 

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この砦は分水嶺でもある、鳥居峠に築かれた城であるけれど、城の名前も砦の木曽川よりの「藪原」の名前がつけられ、実際の砦も峠を背後にした南側に築かれ、中山道を監視し、木曽谷に睨みつけるように築かれています。

 

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このお城を武田軍な気分で堪能したければ、JR奈良井駅/奈良井宿、木曽軍な気分で堪能したければJR藪原駅/藪原宿から登ってみてください。御嶽遥拝所、円山公園、測候所跡が残された廓とされています。


妻籠城

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妻籠城

 

築城年 室町時代中期    
築城主    木曽氏

 

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場所

 

木曽衆の心意気を見せた妻籠合戦(徳川軍VS木曽軍)の舞台。

 

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中山道が馬籠峠を越え、一気に渓谷となる木曽川にまさに出会おうとする場所に妻籠は位置しているだけでなく、清内路峠や大平峠からの道も集まっており、まさに交通の要衝。お城は、京都方面から中山道妻籠宿を越え、次の三留野宿に向かう中山道を辿って行くと左手にあらわれるこんもりとした山に築かれています。西は切り立った木曽川の崖。東は中山道。妻籠城は木曽川と中山道に挟まれています。

 

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城域は、主要部と中山道に睨みを効かせる出丸のような二つの区画に分かれており、区画は細い土橋でつながっている。往時はこの土橋も木橋であったそうだ。戦国時代も主郭へ進む道だった道が現在の遊歩道になっていますが、遺構がしっかりしているので、主郭に進むには左右の郭に睨み降ろされるような気分になれます。

 

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ここで徳川方を食い止めた妻籠城城主は、木曽氏家臣、山村良勝。のちに尾張徳川氏に仕え、主君の木曽氏にかわって木曽代官となっています。


馬籠城

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馬籠城

 

築城年     永禄年間(1558〜69)?
築城主     島崎重通?

 

場所

 

中山道を中津川宿や落合宿から江戸方面に進んで行くと、丘を越えてゆこうよな、坂また坂な道になるが、あと少しで馬籠宿!というあたりでこの馬籠城が現れる。島崎重通氏は何を隠そう島崎藤村の先祖なのであるが、島崎家は代々、本陣や庄屋を営み、馬籠宿の由緒のある顔役で、江戸末期の彼らが、室町時代の昔話やこの地にたどり着いて切り開いていったことなどが、「夜明け前」には書かれており、室町から続く有力者が江戸期を経て明治、いわゆる夜明けを迎えることになります。

 

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案内板の裏手に回ってみたりしたけれど、古墳かよ。。。というくらいの小ぶりな城。これじゃ敵を迎え撃つことができるかよ。。と思う。


落合五郎居館跡(落合五郎城跡)

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落合五郎居館跡(落合五郎城跡)

 

築城年     鎌倉時代?
築城主     落合兼行

 

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場所

 

舌状台地に建設された鎌倉時代の居館跡?中山道沿いにあるので、歩きながらチェックしたけれど、お城光線がバビバビ飛んでくる感じはなかった。

 

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現在は、段々畑の一枚が居館跡に置き換わったような面構え、畑の造成や国道を通したり、往時の面影がここにどれだけ残っているのかをうかがい知ることはできなかった。

 


福島城

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福島城

 

築城年     14世紀中頃?
築城主     木曽義康

 

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場所

 

某ゲームでは、木曽エリアどころか、南信濃一円を支配しているような印象を与えてしまっている木曽氏であるが、交通の要衝としての木曽谷を抑えていたにすぎず、江戸がなかった頃の戦国時代の中山道は、重要な京都や日本の中枢に続く道であったとはいえ、巨大な城郭を構えるほどの国力もなかったのかもしれない。武田家に属国扱いされたり反旗を翻したり、ゲリラ戦をしてみたり頑張って命脈は保ったけれど、江戸時代を待たずに改易気味に土地から引き剥がされ、木曽家の家臣がこの土地の代官として残ることになって、江戸期を通じて山村代官/尾張藩に治められ、明治を迎えた。「夜明け前」には木曽の首府であった福島とそこに住む人の気質が書かれている箇所があるが、そーんな時代なんかも含めて、散策していただければ幸いです。

 

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遺構ですが、主郭と二郭を隔てる空堀や周囲の横堀(曲輪?)なんかがしっかり残っているものの、小ぶりな感は否めない。急峻な高250メートルといった地形に頼るところが大きかったのかな?ま、四方八方からの攻囲戦を強いられない限り、幾筋も伸びる谷や山を伝わって逃げ落ちるゲリラ上等!なスタイルだったのかもしれません。

 

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今回は権現滝経由の遠回りルートだったけれど、車で林道をゴシゴシ登っちゃう方もいる様子。一番簡単なルートだと、家から徒歩30分くらい。山村代官屋敷を含めても、家から4番目に近いお城です。


西野城

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西野城

 

築城年     14世紀中頃?
築城主     木曽氏?

 

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場所 少しずれてるように思います。

 

前回の日本縦断時も訪れていたけれど、今回は観光開発の意味をたっぷり込めて城歩き。権現が祀られている主郭の削平部は冬になると、麓から見上げても、「あ、平らだな」と分かるくらいだけれど、主郭の周りに何かが配されたような気配はない。ただ、西野峠の道がある北側につながる尾根は痩せ尾根とも、手が加わった土橋のように見えもした。

 

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眺望がよく、御嶽、乗鞍、木曽駒の山々が見渡せ、西野の集落や長峰峠や関谷峠に続く一帯も丸見え状態。狼煙台が置かれたようであるが、それも納得です。ここに狼煙台をおけば、きっちり木曽福島方面とも連携できたでしょう。

 

とうことで、同心円状にお城を巡るという誓いは、3城目にして果たされないことになりました。。。三番目の木曽福島城が結構険しいんですよ。。


八沢城(小丸山城)

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八沢城(小丸山城)

 

築城年     応永年間(1394〜1428)
築城主     木曽親豊

 

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場所

 

八沢川は、木曽川に注ぎ込み家から徒歩2分ほどの近さなので毎日でも出かけたいのだけれど、釣り師にはハードルが高い。そう、八沢城の絶壁のように。。なんて言ってみたけれど、八沢川は子供専用の釣り場だから。城にたどり着くのに難渋したのは、ルートを誤って中央西線が走っている西の畑?側から上がってしまってゴミ捨て場と藪がミックスされてしまった悪所を上がってしまったからかな。

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逆茂木?

 

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遥か彼方にそびえる木曽駒ケ岳から木曽川に向かって伸びる尾根の先端に位置するのは、向かいの上之段城と同じ。城域は、木曽青峰高校(木曽高校)と多くの部分が重なっており、見るべき遺構は少ない。ただ八沢川に下っていきながら散歩していると、尾根筋を立つような空堀、もしくはそれに類する地形(遺構?)も見られた。八沢川沿いの道に出て見上げてみると、改めて絶壁である。あんなところに家を建てるかね?という崖屋造りな家も散見するので、メインの木曽福島城を訪れた後にぜひどうぞ!

 

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木曽川と城の先端

 

これにて家から二番目に近い城!攻城済み!


上之段城

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上之段城

 

築城年     永正六年(1509)
築城主     木曽義在

 

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場所

 

探求欲がムクムクしてきたので、自分の家を中心にして、同心円状(時には遺構が明瞭なのを優先にしたりして)に近隣の城や砦、居館跡を探っていこうと思います。木曽町、木曽郡、南信、長野。。といった感じで。

 

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八沢城側から

 

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大根坂。
 

まず一番近いのが、この上之段城。一番近いというより、居館址とされる大通寺と主郭部と言われる現関山公園の間の「山平」という土地に家があるので、城内に住んでいると言えるかもしれません。散々、いろんな方の裏庭やらに侵入してきた城ライフを送ってきたので、自分がそんな場所に住むなんてなんだか不思議な気分でありますが、言われてみれば「山平」っていう地名も、居館と詰めの城の間の削平地を匂わせるようで、なんだかいいですね。

 

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ただし、城跡としては遺構がかなり破壊されてしまって、Dランク。見るべきものが少ないのが悲しいところで、己の持ってなさを発揮してしまっているような感じがします。季節になると裏手の墓地(その上に二郭と言われている関山公園グラウンドがある)に猿がやってきて、その猿に向かってご近所さんがロケット花火をバンバン打つのが、城攻めしてるみたいで戦国感が増すのが救いでしょうか。小牧・長久手の戦いの地方戦闘というか、代理戦争で、木曽軍(豊臣方)VS小笠原軍(徳川方)の戦いとなり、焼き討ち落城の憂き目にあった歴史からすると、城側にいる猿を責め立てるってのは、粋な計らいなのか?

 

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遺構があるない云々から離れれば、木曽川と八沢側に挟まれた丘陵に築かれ、更に、木曽川を挟んで向かい合う木曽福島城、八沢川を挟んで向かい合う八沢城と連携し、木曽路がぎゅーっと細くなった交通の要に睨みをきかせているのが感じられます。「関山公園」の関山は江戸期以降の命名でしょうが、こういった街道が集まり、狭隘な土地だからこそ、江戸期中山道に「関所」を立てるにももってこいだったんでしょう。

 

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ということで、2郭があったとされるグラウンドと、主郭があったとされる関山公園を探索しましたが。得るもんはあんまりなし。盛りを少し過ぎてしまったけれど紅葉が燃えており、焼き討ちされ城の最後を重ねてしまうのでした。ちゃんちゃん。

 

この城の見物に!なんて考えている奇特な方。ぜひお声がけください(笑)。お茶でも飲んでいってねー。

 


仲里間切蔵元

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仲里間切蔵元

築城年     江戸中期/1716-173
築城主     琉球王朝

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場所

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登那覇城は遺構らしきものに出会えなかった、まさに大すべり。朝露で靴はびしょ濡れ、頬にも何かが伝わっている感じもする。そんな傷ついた俺を癒してくれたのが、仲里間切蔵元の石垣(石牆)。ゆったりとして飾らない。尖っているが傷つけない。そんな大人な男を感じさせる素晴らしい遺構。刀を捨てた侍のような気楽な感じがするのは、隣の小学校とののんびりしたコントラストかな。ここの小学生に生まれ変わったら、下半身鍛えて、流打ちを覚え、清原みたいに右方向、この仲里間切蔵元の石垣越えを連発したいぜ。

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登那覇城 ちとんなはぐすく

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登那覇城 ちとんなはぐすく

築城年 ?
築城主 笠松若茶良?

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場所



具志川城、宇江城、伊敷索城とA級のお城が続いたので、観光マップの伊敷索城なんかに比べて、大きく表記されているこのお城にもなんだか期待に胸が膨らむ。。。が、これが大滑り、登那覇城に向かうはずの道が、「登那覇園地」と記載されているので悪い予感はしたのだけど、その予感通り。たどり着いてあちこち歩いたけれど、何にも残ってなかったぞ。

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城を偲ばせるものは何にもない。。。唯一来てよかったと思えたのは、園地というだけあって見晴らしがきき、はての浜が見えたことくらい。

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