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小出城

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小出城

 

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場所

 

築城年 鎌倉時代後期
築城主    小井弖氏(こいで)

 

下調べの段階で、なかなか良さそうだったけれど、近づくにつれて漂ってくる典型的な中世城郭臭がビンビンな地形にうっとり。

 

伊那谷の中世城郭は天竜川の河岸段丘沿いに点在しているけれど、この小出城は、天竜川に注ぐ支流が形成した自然の谷と空堀を組み合わせた縄張りで、やんわりとした主郭な割に、南側河岸の断崖は切り立っているし、東西の堀切もくっきり。現在はだらりと油断した印象のある北側にも、自然の谷をさらに加工した堀が走っていたと主郭の案内板にある。

 

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一番ビリビリきたのは、城の西の連続空堀/二重堀切。正直、正直。。ノーマークな城だったけれど、すごい。鋭い角度ののまま堀切が、ズドーント南の谷に落ちていく。これは、東側からの攻め手もたまらない。

 

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ということでエア攻城は東の高みから。。。と思い、遺構的なものを探ししてフラフラしていると

 

「何してるの?」

 

とどちらかというと不審者を咎めるようなお声がけ。どうやら地元、それも土地の所有者の方。

 

「木曽から出てきてお城を見て回っており、立派な堀切に驚いている。」「伊那の城は皆こんなに立派なの?」なんて逆質問。

 

整備された主郭で、地元の方と草刈りをしたりした方のようで、市議会議員さん。主郭で見た地図に「堀」という地名があったがとお聞きすると、権兵衛トンネルを掘った土で埋めてしまったとのこと。今考えるともったいないが、薬研堀のような鋭角な堀だったそうだ。このあたりは字が「城」で議員さんのご実家の屋号にもなっていたとのこと。こちらの名刺は先月で役目御免となった木曽の観光関連の名刺なのだけれど、その旨伝えた上で交換させていただいた。

 

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さあ、エア攻城。

 

木曽運び屋軍団としては、弱点は高所である西側と台地が繋がっている北側から飛び道具を浴びせながらジワジワと一つの郭を慎重に落としながら攻略する。小出城の城兵は、ちろちろ少数で打ちかけてくるが、まとまりがなく他愛がない、それらの敵を各個撃破し、本丸に運び屋軍団の旗を打ち立てる。

 

 

 

なぜだ?小出城。いくら弱点から攻めたとはいえ。。そうか、城の名前が小出じゃないか。兵力を小出しにするのは、戦の悪手。嗚呼、この城は自ら呪いをかけてしまったようだ。


木曽義仲館

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木曽義仲館

 

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場所

 

築城年 不明
築城主    不明

 

木曽町ができる際に合併したまちの一つが日義村。

 

朝日将軍木曾義仲が平家討伐の旗挙を行った地であることから義仲にちなんで「日義村」と命名され、

 

wikipedeiaで出身の有名人を調べると

 

出身有名人

 

    木曾義仲−平安時代の武将。源頼朝の従兄弟。

 

    中原兼遠−平安時代の武将。木曾義仲に仕えた。木曽四天王の一人。

 

    巴御前−中原兼遠の娘。

 

なんて出てくる。出身地というか、由来のある有名人だけれど。

 

徳川の祖である松平氏のような、山奥から平野にエイヤ!と出て、力をつけた一族が山から出た時に一気に版図を広げるようなケースはあるけれど、木曽から信州日本海を経て一気に京都に攻め上って平氏を追い払ったというのは、今の木曽に暮らして、乏しい生産力からするとなんだか怪しい気もする。翻って、その生産力の低さや環境の厳しさと京都に攻め上ったことのギャップは物語であると思うし、なぜ「木曽」という名前が旗印になったかを追ってみるのも面白そうだ。

 

なんて思い、いつもそばを通っている館跡と呼ばれている

 

伊那市の議員さんに「木曽は仕事がなくて大変だろう」と心配され、「いやいや、木曽もなかなか悪くないですよ」と答えた手前、なんだかスルーする気になれなかったのだ。

 

が、イマイチである。平安末期の居館があったとされる場所も、要害を頼むでもなく、方形の土塁が残るわけでもなく、ただただ、「挙兵の地!」みたいなのぼりが氷雨に打たれるだけの寂しい景色。町の広報誌に「義仲くん!」みたいな1ページの漫画が挟まれることはあるけれど、木曽義仲や平安末期の木曽がどのような場所であったのかにフォーカスする様子はあまりない。合併前はいろいろあったのだろうけど。

 


春日城

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春日城

 

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場所

 

築城年 不明
築城主    不明

 

築城年数は不明ですが、武田氏が版図を広げる中で、一旦はこの城に篭って抵抗の姿勢を示した伊那部氏でしたが、他の伊那の豪族とともに帰順したようです。武田氏が南信濃を抑えた1556年に反旗を翻したものの、すぐに抑えられ、伊那部氏は滅亡。その後は武田氏の伊那谷の拠点だった高遠城の支城システムに組み入れられ、織田軍の信濃侵攻後落城、廃城となったようです。

 

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高遠城に負けず劣らず、見事な桜の大木が三の丸、二の丸、本丸に植わっています。

 

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鶏口となるも牛後となるなかれ!と反抗した伊那部氏、絶望的な戦いであった織田軍の侵攻。この城の近くで今とあんまり変わらない山の景色を見ながら散っていった人に想いを馳せながら、花見酒も良さそうです。

 

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さて、エア攻城。

 

桜の夜、忍びを放って、伊那節を麓の衆に歌わせる。

 

「木曽へ木曽へと つけ出す米は
伊那や高遠の
伊那や高遠の なみだ米
ア ソリャコイ アバヨ

なみだ米とは そりゃ情けない
伊那や高遠の
伊那や高遠の あまり米
ア ソリャコイ アバヨ」

 

直訳すると、

 

「伊那谷にはいらないっていうくらい米があるから、貧しい木曽の衆よ、お前らに分けてやる。」

 

この伊那節を聞きながら、これまた西側の高所、三の丸から二の丸、そして本丸に一気に攻め立てる。伊那節で踊っている城兵のお留守になっている足元を狙っていこう。

 

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「くそ、どうでこっちにはホームセンターだって、コメリしかないし、日用品は高いし、ガソリンも独禁法まがいな価格協定がしかれてる。それに比べて、伊那衆よ、おまえらは。。。そんな踊りを踊りやがって」

 

といった感じで、戦闘力が3倍になる。伊那衆と木曽衆が戦っている場合じゃないのになぁ。

 

なんだか武井壮さんの猛獣の倒し方みたいになってきた城カテゴリ、次のお城はどうなることやら。


小黒城

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小黒城

 

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場所

 

築城年 不明
築城主    不明

 

ふれあい爽やか、エイヴィデイ。

 

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これまた綿半から程ない距離にあるお城。お嫁さんがじっくり買い物している間に中世城郭を楽しめるのは、開発が程ほどの地方都市ならでは。お城は天竜川の大河岸段丘が、小黒川の渓谷で絶たれる、南と東が断崖になっている地勢で、かつ、伊那街道を見下ろす絶好の土地。中世城郭のセオリーに沿った場所に築城されています。

 

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綿半の裏の小黒川北岸の道をゆっくり流していると、石材店の裏にがっつり空堀が掘られているのが視認でき、段丘側から先端部を目指して空堀跡を利用した小径にたどり着くと、見上げるような高低差。空堀をうがった残土を主郭側の土塁に利用したんだね。と主郭跡に入ればわかります。いやぁ、この小黒城。宅地造成が進んで往時の城の全容はつかめないけれど、主郭周縁の土塁の状態は素晴らしい。綺麗に残ってます。

 

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小黒城を攻めるとしたら、やは近くのAPITAや綿半で、卵や豆腐、もやしといった日販品を「お一人様1店、10円セール」で売り出し、城兵総出で兵糧を買いに出かけ手薄になったところで、攻め落とす。これしかない。自らが守り手になった時、「お一人様1店、1円セール」や夕方になると、もともと60円くらいで激安な握り飯がさらに半額になったりするから気をつけないと。


村岡城

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村岡城

 

場所

 

築城年 不明
築城主    不明

 

天竜川西岸の段丘端には、空堀で区画した典型的な中世の城が多数築かれたようだけれど、村岡城もその内の一つ。といっても、ここにお城があったよ。というだけで、標柱すら立っていないパターン。城の遺構を求めて細い農道を辿りましたが、竹害がひどく、道路までボコボコになる状態。伊那谷は、綺麗な田畑が印象的だけど、日当たりの悪い断崖とその周辺まで手入れが行き届かないのかもしれません。無念。

 

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さて、エア攻城。

 

こちらは小沢古城と同じ夜、夜陰に乗じて攻め寄せなんなく奪取。追い落とした見張りの城兵は春日城方面に逃げ去った様子。各個撃破されないよう、城には火を放って破棄。小沢古城に一旦、退却。


小沢古城

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小沢古城

 

場所

 

築城年 不明
築城主    不明

 

田中城という伊那谷には珍しい平城から攻略してしまったけれど、木曽谷から権兵衛峠を経て展開する木曽軍団の侵攻をイメージしながら改めて伊那谷の城を回ってみることにした。

 

まず血祭りにあげたのは、小沢古城。

 

国道361号線沿いに同祖神やらと並んで、高遠藩の標柱「分杭(ぶんぐい)」があるのでそこから南東(権兵衛峠を背にして右手3時の方向w)の方を見ると、目の良い人ならば白い看板が見えてくるので、そこを目指しましょう。その白い看板が月見松遺跡です。361号を夜中に降りてくることはあまりないのですが、このあたりでお月見したら最高だなぁ。

 

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361号から見ると畑の中にうっすら盛り土が残り、それを土塁とみなすしかなさそうで、これをもって小沢古城とするしかなさそうですが、遺跡の向こうは小沢川がえぐった断崖になっていると思われ、空堀で区画されていたかもしれません。

 

月見松遺跡には、縄文時代からの歴史が積み重なっており、「つはものどもがゆめのあと」くらいな歴史観で測るのが難しそうだなぁ。

 

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さて、どう攻めよう。

 

木曽運び屋軍団が攻めるとしたら、やっぱり夜襲。

 

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赤石山脈に浮かぶ月に見とれている城兵を追い落とすように、城の西、木曽山脈を背にした高い位置から一気に攻めたてましょう。

 

無益な殺生をさけるため、鳴り物金物でズンチャカ、木曽伝統の牛の角に松明をつける倶利伽羅谷スタイルでいこうかな。城を奪取した暁には、東西南北から山がかかって木曽ではなかなか楽しめなかったお月見をしようか。ふふふ。


田中城

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田中城

 

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場所

 

築城年  1560年代   
築城主    藤沢頼親

 

ふれあい爽やか、エイヴィデイ。

 

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一国一城の主になったとはいえ、手に入れた城は見た目も使い勝手も廃城と大差なく、DIYは楽しいけれど生き残るための再築城でもあります。そんな運び屋城の用材を仕入れるのによく訪れるのが、南箕輪村のホームセンター綿半。

 

天竜川が暴れていたからか、伊那谷は古い街道や集落は天竜川から少し距離を置いた、東西の山裾に点々としており、その集落を見下ろすような大地や高台に城跡が点々としており、天竜川沿いから程ない、あからさまにモト田畑!な地形の中のホームセンター脇に、城跡の碑があったのにはちょっと驚いた。え?なんで、なにしろ、赤石山脈、木曽山脈を見上げるような場所で、周囲に障害物らしきもののない、観光客から覗かれる、衝立のない川岸の露天風呂みたいな場所。そんな田中城。

 

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ま、田中というのが意味するように、天竜川が暴れて湿地な感じで、そういった沼沢地に守りを頼んだ城だったのでしょう。案内板にもそんな内容が書かれています。

 

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立派な碑石が残っている割にお城は、信濃の風雲の中で廃城となったようす。江戸期には城跡が代官所に転用されたようだけれど、今はうっすら土塁が残っているのみ。意識高い系の俺なので、灯油を買いに行く前に古の城主と脳内会話。

 

「なーんだよ、まだ武田のこと憎んでんのかよ。わーかっわーかった。すぐそこにホームセンターあるからよ、もう一度、築城しちゃおうか田中城。あ?いいんだよ、もうおれ、築城のスイッチ入っちゃうと、一つ築くのも二つ築くのもあんま変わんねーんだわ。」

 

///緊急告知///

来る4月23日(日)、我が木曽町のとある場所で、戦国武者(おそらく雑兵〜侍大将レベル)になれるエキストラのお誘いが入っています。参加者募集中。お弁当しか出ません(笑)が、前日は運び屋城に泊まって、翌日出陣するってのはどうでしょう?コメント欄にご連絡頂ければ制作会社の担当者さんにコンタクトします!


藪原砦

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藪原砦

 

築城年 天文二十四年(1555年)    
築城主    武田晴信

 

 

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木曽谷に風雲、急を告げる!

 

となったのは、信濃に侵攻した武田軍が、上杉軍の圧迫を抑える余裕が出た川中島の後。一気に攻め落とされはしなかったものの、武田軍は木曽に深く浸透し、木曽氏は降伏する。武田氏の版図に組み入れられた木曽は武田軍の一員として活躍するが、勝頼の時代になって武田家が劣勢となった後に離反、当主木曽義昌の母、嫡男を処刑され、再度武田氏と敵対することになり、木曽に侵攻してきた武田軍をこの鳥居峠で迎え撃っている。

 

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この砦は分水嶺でもある、鳥居峠に築かれた城であるけれど、城の名前も砦の木曽川よりの「藪原」の名前がつけられ、実際の砦も峠を背後にした南側に築かれ、中山道を監視し、木曽谷に睨みつけるように築かれています。

 

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このお城を武田軍な気分で堪能したければ、JR奈良井駅/奈良井宿、木曽軍な気分で堪能したければJR藪原駅/藪原宿から登ってみてください。御嶽遥拝所、円山公園、測候所跡が残された廓とされています。


妻籠城

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妻籠城

 

築城年 室町時代中期    
築城主    木曽氏

 

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場所

 

木曽衆の心意気を見せた妻籠合戦(徳川軍VS木曽軍)の舞台。

 

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中山道が馬籠峠を越え、一気に渓谷となる木曽川にまさに出会おうとする場所に妻籠は位置しているだけでなく、清内路峠や大平峠からの道も集まっており、まさに交通の要衝。お城は、京都方面から中山道妻籠宿を越え、次の三留野宿に向かう中山道を辿って行くと左手にあらわれるこんもりとした山に築かれています。西は切り立った木曽川の崖。東は中山道。妻籠城は木曽川と中山道に挟まれています。

 

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城域は、主要部と中山道に睨みを効かせる出丸のような二つの区画に分かれており、区画は細い土橋でつながっている。往時はこの土橋も木橋であったそうだ。戦国時代も主郭へ進む道だった道が現在の遊歩道になっていますが、遺構がしっかりしているので、主郭に進むには左右の郭に睨み降ろされるような気分になれます。

 

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ここで徳川方を食い止めた妻籠城城主は、木曽氏家臣、山村良勝。のちに尾張徳川氏に仕え、主君の木曽氏にかわって木曽代官となっています。


馬籠城

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馬籠城

 

築城年     永禄年間(1558〜69)?
築城主     島崎重通?

 

場所

 

中山道を中津川宿や落合宿から江戸方面に進んで行くと、丘を越えてゆこうよな、坂また坂な道になるが、あと少しで馬籠宿!というあたりでこの馬籠城が現れる。島崎重通氏は何を隠そう島崎藤村の先祖なのであるが、島崎家は代々、本陣や庄屋を営み、馬籠宿の由緒のある顔役で、江戸末期の彼らが、室町時代の昔話やこの地にたどり着いて切り開いていったことなどが、「夜明け前」には書かれており、室町から続く有力者が江戸期を経て明治、いわゆる夜明けを迎えることになります。

 

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案内板の裏手に回ってみたりしたけれど、古墳かよ。。。というくらいの小ぶりな城。これじゃ敵を迎え撃つことができるかよ。。と思う。


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