ピトケアンの日々 / Pitcairn Days
まとめ切れていなかったピトケアンの滞在記!後日、9/21頃にアップデートしなおします。
9/15(木)
午前4時頃、船のエンジンが止まる。夜更かししていたのでコーヒーでも飲むついでにとデッキに出ると、月夜の海に岩が突き出している。ピトケアン島の第一印象は不気味。少し横になって朝を待ち、早めの朝食を午前7時頃とった後、まずはパッキングを済ませておいた荷物を甲板に上げる。午前8時頃に島から迎えのボートが来たと、一番若い船員さんが伝えてくれる。
筋骨隆々の島の男性や、日に焼けた浅黒い肌のおばちゃん、警察官らしき人々を乗せた船が現れる。彼らがこちあの船に乗り込んで船の上で入国審査や税関検査をするのかと思いきや、たいした検査も無く「ロングボートに乗り込んで!」といわれ、促されるがまま乗り込む。ピトケアンが2度目のデイビッドやトニーは、馴染みの島民と抱擁を交わしていたりする。自分達とその荷物の他に、マンガレバで積まれ、島民の大好物だというバゲットが船に載せられる。
船はロングボートと呼ばれ、中型船ですら接岸できないピトケアン島で活躍する、アルミ製のボート。船と島の船着き場を往復し、乗客や貨物を運ぶ「艀(はしけ)船」としての役割以外にも、漁等にも用いられるそうで、実際にその光景にも出くわした。船は小さい丸底ながら甲板が備わっていて、甲板に座ると掴むところもたいしてなく、放り出されてしまいそう。けれど、平たい甲板を備えなければ、コンテナ(極小6フィートコンテナ)の積み卸しが出来ないのだろう。辞書で調べると
longboat / lóngbòat 名 詞〘海事〙(帆船積載の)長艇.
とあった。
覆い被さるような絶壁の下に、湾と呼ぶにはあまりにも頼りないへこみのようなバウンティー湾/Bay of Bountyがあり、その奥に位置している船着き場に向かう。船着き場はランディング/Landingと呼ばれており、文字通りここで上陸し、晴れてピトケアンの人となる。Fretcher Christianが島に到着してから遅れること約220年後。ようやくたどり着いたぜぇ。
50人ちょっとしか人口がいない島の割りに、出迎えの人々でなかなかの賑わっている。国民の半分は船着き場に集まっているかな?
まず、船の手配や渡航に当たって、メールやらでやりとりし、世話になったヒーサーさんが声をかけて下さり、「ピトケアンにようこそ!こんな所まで良く来ましたね!」。
彼女がすぐに、ステイ先のスティーブさんをご紹介してくださり、出迎えムードの船着き場からサササと四駆バイクで連れ去られる。ヒーサーさんはニュージーランドのライターGraeme Lay氏をエスコートするお仕事で忙しそうなので都合が良かったかな?
お世話になるスティーブ/Steveさんのお宅は、島のランディングから首都アダムスタウン/Adamstownに続く道、Landing Road/'The Hill of Difficulty'を登り切ったところにあり、その道が島の目抜き通り?Main Roadとなる場所に位置している。簡単に言うと、船着き場に一番近い家。隣は警察署なので、何かあっても安心だ(笑)
ガラクタにしか見えないモノがいろいろ山積みされていて、お世辞にも家は綺麗とは言えないけれど、自分の部屋はサササと掃除が済んでおり、問題なし。奥さんのオリーブ/Oliveさんが家の設備やらを一通り説明してくれる。お茶を飲んで一段落させ、島のスーパーに勤務(というか担当している)するご夫妻を見送って人心地つく。
この日は、スティーブさんにいきなり「釣りに出かけるか?」と誘われ、「んぅお?いきなり?」と思ったのだけれど、海の様子をチェックしにいったところ、白波/White Capが立ち、風向きとうねり/Swellともに良くないとの事で。明日にしましょう!と言う事になる。
ということで、午後はアダムスタウンの通り沿いをふらついたりで一日がほぼ終わる。ピトケアンのポストカードは一枚も買わず、切手をどっさり仕入れたり、小さいながら品数豊富な島のスーパーを覗いてみたり。
入国審査官のサポートのオバチャンが家に入国スタンプを押しに来てくれた。午後の食事の時に島の観光名所なんかを簡単に紹介してもらったり、明日は釣りに出かけるぞなんて話しをしたり夜が更ける。。あ、更けないうちに島の電気は夜の10時でターンオフなために、なんとなくその前にお開きとなる。そんなこともあって島の人は早寝早起きだ。
9/16(金)
午前中は釣り。何度もバラシがあったので釣果は今一歩だったけれど、釣りと同時に小さな船で島一周のスリルが味わえてよかったぁ。
釣行記はこちら 家に戻って、ひとっ風呂(シャワー)浴びて絵葉書を書き始める。なんだか早めに出さないと郵袋がしめられ、次の船便になってしまう様子。島の風景画なんかに挑戦してみるが、まったく上手くいかない。ぬぅ。
頭を抱えているとあっというまに晩ご飯の時間。今日はスティーブとオリーブのお孫さん達と食事。本日釣り上げたワフー(サワラカマス)が、フリッターやステーキになってさっそく食膳を賑わす。他にはランディングの突堤から島の人が沢山釣り上げた魚。ワフーは大味な白身魚。分厚いステーキ、ミディアムレアな焼き上げ、薄い味付けで食すのはちょっと辛い。
島には中国醤油も砂糖もある。みりんか酒の代用品があれば、煮付けなんかは楽勝で作れそう。ワフーは太平洋の何処でも見かける魚で、時折缶詰にされたりしている大衆魚だけど、島の周りでほぼ無尽蔵にとれるようなので、島の名物料理にしてみてはどうだろうか?長く島に滞在する予定の日本人の方は、みりんか酒をどうぞ!
因みに島の宗派(Seventh-day Advantist Church)上の都合により、鱗がないワフーを食さない人も少なくないらしい。
そうそう、魚嫌いなお孫さんライアン君は、フリッターにされたワフーを「チキン」と思っており、「チキンうます!もういっちょ!」なーんて言ってモリモリ喰ってました(笑)
ワフーだぞ!魚だぞw
夜10時の通電前にメールメール。。と、スススとインターネット部屋に向かう。島を去ったお子さんの部屋だったようで、ハム無線をしていた頃のポストカードがたくさん貼られている。時間が止まってしまったような場所がピトケアンには沢山あるけれど、このネット部屋もその一つだ。
9/17(土)
朝食を終え、絵葉書を書いていると、デイブがやってくる。
「おい、運び屋くん!島の探検にでかけるぞい!」
午後1時に教会前で待ち合わせ、Graeme(グレンと呼んでた)をピックアップして島の東側に向かう。グレンは島の観光局から招待されたNZでは本も出しているライターさん。島の数少ない産業である養蜂を積極的にすすめている方に世話になっている。
というより、彼の家には新たに建てた離れがあり、ちょっとしたシャワーや小さいキッチンなどがついたホテルの一室のようになっている。見せて頂くとかなり快適そう。我らがスティーブさん宅はフレンドリーで、いろいろ気遣いしてくれ、宿泊するのに何の不自由もないのだけど、家はちょっと古いんだよなぁ。。。。
Jayさんと自慢のお宿、そしてスカッドバイク。
で、この離れ系の部屋は島で唯一のホテルのようなモノ。。らしい。値段を聞く前に「そんなに安くないヨン」とオーナーのJay氏に言われてしまったけど、値段を聞いておけば良かったなぁ。因みに、件の事件で島の住人が収監されていた監獄をホテルに改装する計画もあるらしい。
このジェイさんは、全体的にテンション低めな島の年配組(中年以上)の中では、養蜂や観光業などに積極的に取り組んでる珍しいタイプ。会話にジョークと大笑いがバンバン折り混ざり、日本だったら、土木会社社長兼村会議員みたいな昭和のオッサンといったところ。
高齢者クラスター化が進み、働き手が数年後に激減し、これといった産業のないピトケアンを存続させる為には、観光業を育てるほかにない。観光業に限らず言える事だけれど、積極的な持ったジェイさんのような人がもう少し増えないと、島の将来は開けないなぁと思う。
以下は個人的推察だけれど、
ピトケアンの難しいところは、彼のような積極的なグループの人より、どちらかというと老いて共同体への依存が高く、担当する仕事はキッチリこなすけれど、新しい事には消極的なグループ、自分の守備範囲の外に関してアグレッシブでない人が、どちらかといえば多数派なことと感じる。
昔語りが似合う消極的組の多数派の雰囲気が、ピトケアンを訪れる一癖ある旅行者の趣味や、郷愁をくすぐるのも難しいところだなあ。
今回のピトケアンを訪れた旅行者は、僕のような国馬鹿(英語:Country Counter People or Traveler/以下CCP)が沢山いると思いきや、40年前ピトケアンにやってきて、米軍の衛星システムを導入し、島の人と結婚した事もあるデイブに、海の歴史が大好きな根っからの海男トニー、そして観光局に招かれたNZの作家、そしてCCPの僕で、僕以外の平均年齢は60前後。
年齢が重なったりする事も大きいかもしれないが、旅行者全員の意見も残念ながら総じて島の未来に関しては否定的か、非常に難しいといったもので、観光に投資して住民が生き抜く程度にそれが育ったとしても、その頃の島は、タヒチ人の血を明らかに受け継いでいる顔をした高齢者クラスターが天寿を全うしたり、島を離れているはずで、そんな島はピトケアンであってもピトケアンでない。といった意見だった。
おっとっと、話が横道にそれた。。。
デイブのスカッド四駆バイクは最新型で、島でみかけるものより一回りサイズが大きく、アメリカで8,000ドルで購入したとの事。どうやってピトケアンまで運ばれたのかは聞かなかったけれど、ニュージーランドでは13,000ドル(USD換算で)で売られているものだそうで、「日本製だけど、日本で見た事無いよ」と言うと、「アメリカでも基本的には公道では走れず、ハンターや釣りをする人が、道をそれたところから分け入って行くときに使うんだよ。」と教えてくれた。
ピトケアンの目抜き通りは舗装されていて問題ないのだけれど、その道をそれると未舗装の坂道。人が住んでいる場所のほとんどが傾斜地である上、火山性の赤土な土壌。雨が降ってしまうと島の未舗装道はぬかるんでしまい、普通乗用車は勿論、四駆自動車でも厳しいそうで、日本製のスカッド四駆の出番となるそうだ。
そんなデイブのスカッド四駆に3ケツして島巡り。崖が苦手な自分以上に、グレンが臆病でなため少し勇気が湧き、いつにも増して崖際に近づいたり、若いし疲れないぜみたいなフリをしつつ楽しく島の西を観光。
東半分を前日のうちに見て回ったグレンを途中でおろし、島の東半分を見て回る。ピトケアンのガイドブックを書きあげ、若かりし頃は道無き道や、誰も足を踏み入れた事のない崖を歩き回った男だけあって、デイブのガイドは簡潔ながら分かりやすく、質問にもキッチリ答えてくれる。寄り道を交え、ユックリキッチリ観光したため、スティーブさん宅に戻ったのは5時過ぎ。
感謝の意味を込め、彼のガイドブックに自分が歩いてみた感想なんかを付け加えた、ピトケアンガイド!日本語版!@運び屋ブログ!をナルハヤでアップデートしますね。
夜は予定通り、ジャパニーズカレーをスティーブ家でご馳走する、スティーブは気をきかせて一人暮らしのデイブを晩ご飯に招いてくれたのだけど、ベジタリアンのでいぶは、ビーフカレーを食せ内様子で、席の前にはオリーブの作った野菜料理。むぅ、残念。
ジャパニーズカレーはスティーブ&オリーブご夫妻には大好評。残されたらブルーなので、敢えて少なめの盛りつけにしたけれど、スティーブはウマイウマイと言って三杯もおかわりし、オリーブもキッチリ二人前くらいは食べてくれ、食事中に少しは二人との距離も近づいた気がする。
モリモリ食べてくれる二人をみながら小さくガッツポーズ。ハウスバーモントカレーなだけに、イエーイ!
絶海の孤島でも手に入る食材で、簡単に作る事が出来る最強日本料理。ジャパニーズカレー。侮れない。
9/18(日)
午前中は、馬鹿葉書を黙々と作成する。風景画なんてモノを書くレベルに達していない事が判明したので、魚の絵やら馬鹿格言、嘘八百をつれづれなるままに。ブログは誤字脱字だらけだし、物事を順序立ててすすめる事も苦手だけれど、適当に頭の中に浮かんだ適当な事を脊髄反射気味に書くのは楽チンだなぁ。
ピトケアン島をひらがなで「ぴとけあん島」と書き始めるときの「ぴ」、この「ぴ」をカルフールで買った一本50円もしない、なんでもない筆で書き始めるのが快感となる。筆運びというのだろうか?何度かいても違った雰囲気になるのが面白い。ひらがなの「ぴ」とか「ぽ」ってなんだか見ればみるほど、書けば書くほど不真面目で、力の抜ける音と形をしてて素晴らしい。
絵葉書作成が一段落したところで、それらをごっそり郵便局に持ってゆき、日本に向かって発送する。水性絵の具が滲みませんように。
午後になると時間を持てあましてしまうので、昨日のスカッド四駆の旅に続き、自分で島を歩いてみようと思い立つ。等高線に沿った道以外は全て坂となり、島を歩くことはもうそれだけでトレッキングだ。
昨日はグレンも一緒の3人旅だったので、じっくり見て回りたかったラジオステーション跡をまずは見て回る。島にいくつかある歴史が止まってしまったような場所の中でも、とびきりの場所だとあらためて思う。
そのまま島の南の稜線沿いを進んで、ハイエストポイントに向かい一休み。そのあとは、カルデラの外輪山づたいに歩く。ピトケアンのカルデラをデイブはクレーターと言っていたけれど、英語圏ではカルデラもクレーターと言うらしい。日本人感覚だと、クレーターは隕石やらでのへこみ。カルデラは火山のマグマが無くなって、山が陥没して出来たへこみ。少し混乱するなぁ。
このカルデラの延長線上に、更にエッジがきつくなった左右崖なエリアがあり、その先にガネッツリッジ/Gannet's Ridgeと呼ばれるビューポイントがあるのだけれど、臆病者の自分は途中で引き返す。馬鹿と臆病心がなかなか克服されない。
その後、アダムスタウンの外れから、クリスチャンケイブにも向かうが、今度は道を間違え、トゲトゲの植物の群生地に突入してしまい、猛烈にちくちくする植物と格闘しているうちにどうしようもなくテンションが下がり、これまた引き返してしまった。。ああ情けない。。
スティーブ宅に戻ると、海が穏やかだったこともあり夫婦で漁に出かけたらしい。ハタ科の魚を中心に家の裏の捌き台が魚でぎっしり!自分達の島の魚を食べないマンガレバの人達に送ったり、ニュージーランド行きの船にCraymore IIに乗っけるそうだ。
夜は島の集会場で、トニーがアメリカに一旦持ち帰り、傷や色あせを修正したピトケアンの古い写真の上映会。半分以上は行きの船で既に見せてもらった写真だったけれど、まだ賑やかだった頃のピトケアンを老人ばかりの集会場で「ほう」とか「はあ」とか言いながら観賞するのは悪くなかった。ホストのスティーブとオリーブは、写真が一家族のモノに限られているのがご不満だったようだけれど。。
そうそう、こういった島のみんなで集まるイベントの告知や、郵便局の締め切り時間などの通達、Claymore IIなどの船との交信などでは、島の各家庭におかれている無線が用いられます。
9/19(月)
朝ご飯を食べていると、オリーブが、「運び屋さん!今日は山の上でバーベキューをやるから夕方には家にいるのよん」とのこと。それは楽しみじゃと、追加の絵葉書をサササと書き上げ、軽く惰眠をむさぼる。
朝の8時に通電が始まるのだけど、ピトケアンの午前8時は17時間時差のある日本の午前1時。そう、伊集院のラジオの時間。いつもはじっくり聞きたいので、録音済みのモノをノンビリ聞くのだけど、これがホントの月曜JUNK!ということで、久しぶりにKeyHoleTV経由で生放送。
回線の状況が悪く、半分も聴き取れなかったけれど、ピトケアンで生の日本のラジオが聴けて感無量。長い滞在パターンでないと、ドタバタしてラジオなんて聴く暇も無かったはず、若干ピトケアン滞在は間延びしてしまったけれど、こういうのも「また良し」だなぁ。そうそう、ラジオが終わると、島は午前10時。深夜ラジオを朝聴いて、鼻歌交じりに魚釣りに出かける。が、釣れない。そんなに人生甘くない。
おばちゃんも今日は今一歩らしい。
ヤガラ君。また君か。。
午後のほとんどは、BBQに行くよ!と声がかかるまでは、部屋で滞在記やらをまとめたりして過ごす。
奥さんがノルウェー人で、ニュージーランドに住んでいた時は、日本の高校生をホームステイさせた事もあるご夫妻が加わり、ピトケアン最高峰、その名もハイエストポイント(今回で3度目だけど)でBBQスタート。子供が4人に大人が4人の合計8人。島の人口の15%くらいはがBBQしてる事になるなぁ。
ソーセージにサラミをモリモリ焼いて、島のトウモロコシを楽しむ。
気の合う家族同士であるのに加え、ワインの酔いも手伝って、ブログでは書きにくい政府のアレコレや、島で最近起こっている事なんかの話の輪に加えて頂き、素晴らしい時間だった。東京であろうと日本の山奥であろうと、人間は人間である故、愚痴ったり政府のやり方に不満を述べたり、近所の婆さんが呆けちまってよぉ、なんて話をするんだなぁ。
西の水平線に日が沈むまで、薪をくべくべしながら暖をとり、素晴らしい時間を過ごしました。ピトケアンに来るチャンスがあれば是非!
9/20(火)
朝から島の無線が騒がしいので、なんだ?変だぞん?と思うとヘンダーソン島に向かっていたClaymore IIが帰ってきた様子。
昼前に島の中心部/Squareに向かうと、ヘンダーソン島の鳥の保護活動を行っていた人達が、島で消費しきれなかった分を持ち帰り、ピトケアン島に寄付したそうで、その豆やらレーズンやらが小分けにされている。シェアアウトという、早い話が島民全員山分け作業。デイブと学校の先生の島外組が率先して小分けをしている後ろで、島の爺さん婆さんが配られるのをのんびりと待っている。
島に提供されたモノをこうしてシェアすることの他、ロングボートと用いてみんなで漁に出たときの獲物も等分されるそうだ。共同体が小さく、ミドルマンの入る余地がない小さな共同体の良い面かもしれないなぁ。
午後は、ぐっと雲が下がって雨となる。今年の冬は雨が少なく、これから夏になろうとしているのに、島はからからで埃っぽく、宿泊先のシャワーをだらだら使うのはもちろん、小さい方でトイレの水をジャーッと流すのに気が引ける程だった。そんなこともあって外に出られないものの、ヘトヘトになっていた島を潤すようで気分がよい。
いくつかあった井戸は涸れてしまっており、谷筋に大雨の時にだけ流れる水は菜園用に用いられるらしいけど、島の掃除洗濯炊事シャワーといった生活に使われる水は、家の屋根なんかに降った雨水をタンクに溜めたもののみ。
「西瓜の種を植える時期なのだけれど、今年は菜園の土の水分が足りなくて、自宅の下の菜園に家庭排水を分別して流して育てるしかないなぁ。」
なんてスティーブは話していたけれど、この雨は少しは恵みになっただろうか?いやぁ、なってもらわないと。気分がよいので、スティーブさん宅が保有している、島で数台しかない乗用車の雨水洗車を行う。
夜、最後のディナー。
雨が降った事なんかも加わって、陽気な食事となって話が弾む。
島を訪れる人々に尋ねられ続けているだろうから、こちらからはあまり島の今後についての話は突っ込んで聞かなかったのだけれど、なんとなく話の流れが島の将来になる。
自給自足を釣りや菜園で実践し、4人のお子さんのうち、二人の息子さんが島に住み、お孫さんもいるスティーブ&オリーブ夫妻。ピトケアンでも島への愛着が強いご家族だと思うのだけれど、彼らが抱く将来の展望はあまり明るくなかった。
観光業での島の振興に積極的でないグループに属している事(コチラの推測)が反映しているのかもしれないけれど、彼ら自身がリタイアした後、島の仕事を継ぐ正統ピトケアン人がほとんどいない事に加え、タイミングを同じくして、お孫さん達がどんどん島を出て行ってしまう年齢にさしかかることも辛いようだ。
NZに住む娘さん家族ともなかなか会えず、次回会うのは、スティーブが持病の定期検診を行うタヒチ。
Claymore IIの運賃は現金収入の少ない島民への負担が大きく、医療サービスの一環として診察を受ける場所への交通費が無料になる、検診の時などでしか島を出る事ができないそうだ。「娘のお孫はまだ赤ん坊で、船に乗せるのは大変なんだ。でも、小さいうちなら航空券も安いからさぁ」なんてスティーブさんは言うけれど、何とも切ない話だ。
人口減と絶海化の同時進行を、どこか余所者物知り的見地から眺めていたけど、体が動くうちは自分自身で余生を過ごしたいという願いと島への愛着、でもそれを貫こうとすると家族と文字通り離れ離れにならざるをえないピトケアンの難しさを、最後の夜に改めて肌身で感じる。
ウォー!元気出していこうぜピトケアン!近いうちにまた来るからYO!
もう一度、大量の日本食材や島向きの釣り道具をもって、早いうちにピトケアンを再訪したい。また、理由やきっかけはどんなんでも構わないので、ピトケアンがピトケアンであるうちに、少しでも多く日本人がピトケアンを目指してくれる事を切に思うのでした。円高だしチャンスだYO!
9/21(水)
Claymore IIの無線が
「朝か夕方の出航にしようと思いますが、どうでしょ?」
と伝える。昨日から出航の時間が気になっていたのだけれど、海の様子は穏やかで、朝ピトケアン出航→翌夕方マンガレバ着、もしくは夕方ピトケアン出航→翌々朝夕マンガレバ着になるかの選択になるのか。と思っていると、
「乗客の意見の多数決をとろうと思います。現在一対一、運び屋さんはいつ出航したいですか?」
との無線。
おお!何このキャスティングボード握ってる感!
間違いなく、もう帰りたいのはNZのグレアムさんで、のんびりしたいのがトニーだな。グレアムさんには悪いが、昨日の雨で瑞々しくなった島の空気を吸っておきたいので、夕方出航に一票!即座に出航が夕方となる。
滞在費をチェックしていると、またまたデイブがやってきて、
「おい、運び屋くん!島で周り切れてないところもあるでしょ、でかけるぞい!」
デイブ自身も時間を持てあましているのだろうけど、積極的に誘いに来てくれるのが嬉しい。喜んでお誘いを受ける。
何処に行きたいのか尋ねられたので、「やっぱあのラジオステーションにもう一度!」とお願いする。一緒に出かけてみると自分がラジオステーションだと思っていた建物は電源室だったようだ。
一人で立ち入るにはちょっと躊躇していた大きな建物の方が、本物のラジオステーションでそこに入る。基本的にデイブは島に都合何年も住んでいた事もあって、どこもフリーパスだ。
遙か地の果て海の果てまで来て、ラジオステーション!と大騒ぎしたくせに、実はソレ、電源室跡ですよ!って笑い話を危うく回避。
ガラクタだらけの電源室とはうって変わって、真ラジオステーションは、気象データをNZに送るシステムが設置され、なんとなく整然としている。ピコピコ光るパネルが壁にかかり、一部分だけはキッチリ機能していた。建物の8割は、ハム無線クラブや、実際に90年代まで島外との交信などに使われていた機材が残っていた。
その後は、島の菜園や噴火口跡、いつ行っても開いてなかった島の博物館などを回る。菜園にはデイブの元奥さんがいて、ら!と思ったけど何も無し。
これにて思い残すところ無し、我のピトケアン滞在に一片の悔い無し!
絶壁関係の箇所や、バウンティー号と反乱者達の歴史の繋がりなど、いくつか回りきれなかった事もあるけれど、デイブに案内されたり島の人達と話しできたことを、持ち帰って色々考えたりで精一杯。日本の本屋や図書館に出向いて、バウンティー号の歴史やらブライ艦長の伝記なんかを改めて読んでみたいなぁ。
午後5時にランディングに向かうと、もう自分が最後の搭乗者。自分を載せるとロングボートが程なく出発する。ロングボートには乗れる限りの島民が乗り込んでいる。Claymore IIの出航だけでなく、島に立ち寄った船を見送る事は、乗客が酔狂な余所者ばかりな上、ほんの数人であっても大きなことなのかもしれない。
ピトケアンには、老人を中心に、明らかにタヒチ人の血をひいた顔立ちの人が多かったけど、直接触れる文化や生活習慣となると、ピトケアン語は島の人同士で用いられるものだったし、食事も食材もタヒチよりNZ寄りで、これだ!と感じる瞬間が少なかった。
ただ、最後の最後、ほんの少し演出がかかったようにすら見える、島の人達が出来る限りロングボートに乗り込んで、出航する船の去りゆく人に再会を誓い合い別れる船出の景色は、タヒチ、NZ、英国水兵の文化のエキスをほんの少し受け継ぎつつも、
「別れ」
に格別な重さのある、ピトケアンの歴史と今がギッチリ詰まってる。これぞピトケアンな情景だなぁ。と思う。
ロングボートが船着き場に吸い込まれるまで手を振り、少し時間をおいて船が出航。
トニーと、スウェーデン人のアルヴェ、陽気なClaymore IIの船員が後方デッキに出て、暮れなずむピトケアンに向かい、手を振り写真を撮り、島が見えなくなるまでボンヤリしてましたとさ。
* ピトケアン島の観光ガイドもガッチリとアップデートしますのでしばらくお時間下さい!