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王都ハリハラーラヤ / ロリュオス都城

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王都ハリハラーラヤ / ロリュオス都城

 

場所

 

チャウスレイヴィボルやバンテアイスレイ、ベンメリヤと今回は、アンコール遺跡群の中でも中心部から離れた遺跡を優先して回った。

 

1、ブータンやネパールのような政教非分離の国での寺院や城の位置付け
2、きっちりと巡らされた環濠
3、城臭がプンプンする脳みそフィルター

 

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などを合わせて回ると、どれもが城や砦や、囲郭にかこまれた都市に見えてしまいきりがない。けれど、バコン寺院を中心とする、ロリュオス都城はアンコールトムが建設される以前に、王都ハリハラーラヤと以外の「城」と明確に位置付けられているし、埋ま利始めている環濠で草を食んでいた牛も「おう、ここは城としてアップデートしてもいいんじゃないの?」というまなざしを送ってきた。よし、アップしよう。

 

ハリハラーラヤは8世紀末から9世紀にかけて栄えていた王都で、アンコール遺跡群の東南に位置している。シエムリアップからも距離はあるが、国道沿いと言って差し支えのない場所に位置しており、バイクで出かけるには丁度良く、観光客で溢れかえる有名遺跡と違って混雑もほどほどで、日程に余裕のあるグループがサンセットサンライズに訪れるような場所となっている。

 

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中心部には国家寺院としての役割を果たしたバコン寺院があり、ほぼ正方形の寺域は豊かな水をたたえた水濠があり、その寺域をふた回りほど大きくした正方形の環濠がうっすらと残っている。

 

アンコールトムのような明瞭な城壁は残っていないけれど、環濠の側に立つと、水牛は話しかけてくるし、城域とした側の鬱蒼とした森からは「わかるよ、『海外の城』にアップしたいんだろ。存分にどうぞ」と古代クメール語で声をかけられた気もした。環濠と鬱蒼とした感じでしか明瞭な城郭システムやディフェンスを感じさせるものを見つけることができなかったけれど、アンコール遺跡群との対比や距離、王都として機能するに十分な城域はあった。

 

サンセットの時間帯には、近くを熱気球がアンコールワット方面に向かって流れていったけれど、いつかアンコール遺跡群と合わせて、空から縄張りを感じてみたい。


アンコールトム / Angkor Thom

 

アンコールトム / Angkor Thom

 

場所

 

植民地フランスに「再発見」された偉大なるカンボジアの遺産は、再発見当時のアンコールトムが崩落が激しかったり、密林に埋もれていたこともあって、保存状態がよかった「アンコール・ワット」がアンコール遺跡群の代名詞となった。

 

 

とはいえ、最大級の都市遺跡はやはりこのアンコール・トム (Angkor Thom) 。

 

アンコール・ワット寺院の北に位置していて、寺院的色彩の強いアンコールワットと違い、まごう事なき城砦都市遺跡といえる。当時のフランス人でさえすぐには信じなかったのであるが、この巨大都市、なんと12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世により建設されたといわれている。

 

 

 

アンコールトムを訳すと、大きな都市という意味で、ゆったりとした環濠を備えた堂々たる姿は、アジア、いや世界有数の遺跡と呼ぶにふさわしい。長大でそそり立つ城壁は、なんと一辺3km、8mの高さも立派だ。ただ、攻城機の発達に呼応して強化されていった同時期のヨーロッパやイスラム圏の城壁と比較すると、死角をカバーするシステムなどが施されておらず、アンコールトムの中が、豊かで彩りのある「技巧的」な遺跡で満たされているのに比べると、大きいだけでシンプルすぎるように思える。はっきり言うと、城壁として頼りない。

 

 

観世音菩薩が5つの城門の四面に彫刻されているのも、武力より宗教の力で国家の統一を図ったり、王を奉ったことの表れかもしれないし、当時は、この辺りで最大の動物であったであろうアジア象は近くで見ると巨大だし、バイヨンの戦いのレリーフに彫られたているのは目がつり上がり、最終兵器!といった形相だけれど、南門の城壁上から堀の向こうのElephant Rideの出発点で草を食む姿を見る限り、

 

「小さい小さい」

 

といったサイズに見える。アンコールトムの城壁からすれば取るに足らない存在のように思える。

 


Intramuros / マニラ囲郭

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Intramuros / マニラ囲郭

 

場所

 

 

東南アジア最大級の西洋式要塞は、ベトナムのフエだと思うが、現存しているもので、次に続くのはこのマニラの囲郭ではないであろうか?現存している上、往事の統治者が実際に西洋の国だったものとなると、このマニラ囲郭は最大級なのではないだろうか。

 

マニラ湾の水を引き込みパシッグ川の水を引き込んで、17世紀初頭に完成した要塞は、古地図を見ただけでは、戦いに明け暮れていた時代のヨーロッパの都市のそれと変わらない。それほど稜堡がキリリトしていて、うだるような暑さと、笑顔に笑顔が返ってくるフィリピーノやフィリピーナが散歩している姿がなければヨーロッパのどこかである。

 

現在では水を引いていた周囲の濠はゴルフコースや公園になっており、コロニアル調の家が軒を連ねていたという城壁の内部は、第二次大戦末期の空襲や艦砲射撃で、ほとんどの建物が戦後に建てられたものだそうだけれど、交通が制限されたり、学校が集められていたり(推測)して、他のマニラの街区とは趣を異にしている。

 

城壁の上を歩いてみたかったので、輪タクのおっさんのお誘いは断ってしまったけれど、城壁を見上げながら、わずかながら残っているという戦前からの建築を見て回るのもアリだろう。日本がオランダや清、そして朝鮮とだけ細々と国交を繰り広げていた江戸期、日本からそう遠くないこの地で、スペインの統治が長く根ざした重さと城壁の分厚さを重ねるのもよいし、その後のフィリピンの近現代史をめぐるあれこれ、日本の関係性なんかも感じる方は、びんびんすると思う。


Fort Santiago / サンチャゴ要塞

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Fort Santiago / サンチャゴ要塞

 

場所

 

Intramuros、マニラ囲郭の要は、何と言ってもパシッグ川の河口部分。

 

陸からの敵ももちろん脅威であっただろうけれど、マニラは海に面しており、スペイン統治時代に敵対し統治を脅かした最大の敵は、中華系の航海者や強力な火力を備えた他の西洋諸国であったはず。スペイン統治の本拠であり、貿易拠点であったマニラを守るには、船の航行を監視し、海を見渡すこの地が最適だったのでしょう。

 

そんなサンチャゴ要塞。サンチャゴ要塞って世界にいくつあるんだろう。。

 

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マニラ囲郭の要に位置したサンチャゴ要塞は、いたるところにスペイン式張り出し櫓が備えられ、面構えも、バルセロナやセウタでみかけた形状の城壁や城門といった防御施設で固められ、スペインを強く意識させられますが、サンチャゴ要塞の中でも最重要拠点だったであろうバッシグ川に面した区画は城壁がコンクリートで強固かつ無粋に固められている場所もあり、案内板を見ると、アメリカや日本が関わった歴史が刻まれています。

 

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近くに大聖堂があったり、長いスペイン統治を経てカトリックの多いフィリピンの実情も反映してか、布教者たちの像などが点在するサンチャゴ要塞。スペイン統治の長さ、そのあとにまたフィリピンがたどった過酷な近現代、マニラの一等地/重要拠点であったからこそいろいろな歴史を重ね、それが今も残っており、お城的に真新しいことを発見できることはできなかったけれど、Intramurosと合わせ、フィリピンを知る上ではやっぱり欠かせない場所かもしれません。


嘉義城 諸羅城

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嘉義城

 

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場所

 

残念ながら嘉義城は跡形もありません。往時は城壁で囲まれ、四つの門が配された立派な様子だったそうなのだけれど、1906年の嘉義大地震で城壁や城門が崩壊してしまい、地震の後に城壁などの修復再建は行われれず、都市計画の下に城壁跡には道が通り、門があった場所の数カ所に円環が配されたようです。

 

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南門跡の円環

 

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東門跡の円環
 

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嘉義は、終戦の年にひどい空襲があったりしているにもかかわらず、日式の家屋や建設物が残されており、営林署があった市街北部には修復された上にかなり纏まっており、日本的な街並みが温存されてびっくりしたりするので、日本人としては少し申し訳ない気持ちもします。

 

そのような復興を遂げたため、現在、嘉義でお城があったことを忍ばせるのは地名のみ。東西南北、いずれの門の名前も、その門があった周辺の市場や通りに名前が残っています。


フエ / Huế

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フエ / Huế

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場所

フエの北バスターミナルでバイタクに乗り換え、ホテルに向かっていると、視界に巨大な城壁がバーンと突然現れる。

その城壁は彼方まで途切れない。私はご存知の通りのお城バカだし、フエの巨大さは事前情報で覚悟はしていたけれど、興奮からの貧血状態でクラクラ。あやうくバイクに振り落とされるところでした。

このフエ、城壁がきっちり現存する都市ではおそらくアジア、いや世界的にも指折りの巨大さを誇る城塞都市。いやぁ、ベトナムに来て良かった。フエ滞在時は、おかげさまでボルテージは上がりアドレナリンフルスロットル分泌のスーパー要塞ヤ人状態でした。

まずは、フエの基本情報のおさらい。

現在のフエの城塞都市がある場所には、それまでにも地域の中核都市ではあり、富春都城などと呼ばれ、城市が建設されたそうで、ベトナムを統一した阮朝の初代皇帝、嘉隆帝がこの地に改めて、サイゴンに置かれていた太和殿をこの地に移し、王宮とそれを守護する巨大要塞都市を建設を開始したのが、本格的な現在のフエの始まり。要塞は、城壁にフランス式の稜堡が配された所謂ヴォヴァーン式の要塞であるものの、全体的なレイアウトや、城壁の各所に乗っかった上物は、中華な匂いがプンプンする真四角。小中華を目指し、フランスからヨーロッパの技術を取り入れた阮朝スタイルと言えるのかもしれません。

夜があけて、バイクレンタルし、さーて、今日はとことん見物してやろう!

と思ってバイクを走らせること数分、チャンディエン橋を渡りきったところでバイクでスライディングしてしまい、足と手を負傷してしまったのはご愛嬌。フエの城壁を目の前にした、スーパー要塞ヤ人に怖いものはありません。全く痛くない。。ぬはは。

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城壁は一辺2.2Km、城壁の幅21m、高さ6.6m。城壁と堀はセットになっているのだけれど、その向こうにはSông Hương/香江とそこから引かれた水路が外堀の役割を果たし、城の北東角には王冠堡まで配されています。もうこれは、バイクかタクシーチャータなんかでなければ回りきれません。

紫禁城の3/4の規模といわれる王宮の見物はパスし、今回は城壁とフエならではの川の水を城内に取り込んだ箇所、そして王冠堡に狙いをつけて、見物することにしました。このブログで、「都市囲郭!都市囲郭!」なんてこのブログで嬉々としています、実際のところは村の周りの生垣程度で喜んでいたりしてたレベルが多かったりするのですが、今回のフエは大きすぎて笑ってしまいます。フエに入る前にベトナムでは10の城塞を見物しましたが、それら全て合わせても、フエの大きさに遠く及びません。それぐらい大きいです。

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ヨーロッパの大都市の大聖堂や教会を見て回っても、最後にバチカンのサン・ピエトロ大聖堂に入ってしまうと、それまでの記憶や感動が飛んでしまうというか、圧倒されてしまうような感じがしますが、フエの巨大さは、「ああ、これが最大で最強だわ」という圧倒感を伴っており、似ているかもしれません。

まあいいや、今回は久しぶりに、写真と番号付きで頑張ってみます!

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8.穴ぼこだらけの王宮の壁。内堀では釣りもOKのようです。釣りに城にベトナム飯。僕の好きなものがフエには詰まってます。

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9. 王宮の城壁。これだってかなりの大きさなのに。。

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10. 稜堡の所々でまだ現存する、兵舎跡
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11.外堀のさらに外側には運河が開削されていて、防御/防水害とロジスティクスの両面からフエを支えています。

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12.城内へ水を引き入れる場所

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14. 11を城内側から。

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15. 11を城内側から。

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16. 水門だと思ったら水関だった。なるほど、水路のゲートっていう意味かな。

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17. 南西の角の稜堡。
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18. ここにも兵舎or武器弾薬庫跡

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29.北東の王冠堡、外壁

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30.北東の王冠堡内
 

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31.北東の王冠堡内

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32.

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稜堡の上は畑になっている場所も。

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稜堡の上は畑になっている場所も。

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北東の王冠堡内に住まわれていた家族に頂いた冷水。

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北東の王冠堡内。

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王冠(笑)

 

ハノイ(昇竜、東京、東都)都市囲郭

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ハノイ(昇竜、東京、東都)都市囲郭

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場所

11世紀の李朝は現在のハノイに都と定め、農業地帯を統治する拠点とし、李朝の成立以降、昇竜(タンロン)、東京(ドンキン、トンキン)、東都(ドンドー)など様々な名で呼ばれて、1802年に阮朝がフエに都を移すまで王都として繁栄した。

統治する拠点的な町が大陸では、ぐるりと囲郭で囲まれることが多かったけど、このハノイもそれに習って、城壁で囲まれた様子。ホアンキエム湖北側の地域は現在では旧市街と呼ばれ、そのエリアは都市計画され直線的な街並みな他のハノイの街区とは異なり、有機的でアジア、所々にコロニアルな雰囲気も散りばめられ、趣のあるエリアになっている。

今回は、旧市街のツーリストエリアで且つ東門に近いエリアに宿をとったのだけど、旧市街の城的視座から確認できたのは東門だけ。世界遺産にもなっている昇龍(タンロン)遺跡との関連性も考えてアップデートするべきだったけれど、そちらは、時間の都合で回れなかった。今回のベトナムは楽しかったので、ハノイにも近いうちにまた来るでしょう。その時改めてアップデートしよう!

クアンチ要塞 / Quang Tri Citadel

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クアンチ要塞 / Quang Tri Citadel

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場所

ドンハイ要塞のお次は、クアンチ省にはいってクアンチ要塞。クアンチは漢字に直すと廣治のようです。

ベトナムのお城や要塞のネットの検索のイロハもなんとなく分かってきたけれど、要塞の建造は1824年という程度。4つの稜堡を備え、城門は各方角にひとつずつ配されたそうだ。稜堡の一片は約400m。Google Mapでみても幾つかパターンのあるベトナムの要塞とは一線を画す、綺麗な四稜郭だ。

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街道筋から、タクシーを捕まえて要塞にたどり着いて見物を始めると、復元されている南門の脇に土産物屋のような建物と、奥に博物館。

おっしゃ!と思って訪れてみたけれど、中の展示はDMZにも近かったこの町のベトナム戦争時の攻防、傀儡南政権を寄せ付けなかった。。とうい革命勇者を讃える仕様の展示。クアンチ要塞自体が、ベトナム戦争時に南ベトナムの最北の拠点であり、北に取られそれを取り返そうとする攻撃を受けたという攻防戦があったようですね。なるほど、要塞の区画はくっきり残っているけれど、ベトナムにとっては、戦争時の激戦地としての記憶の地なんですね。

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資料館を見ていくと、北ベトナム軍に占領されたのちは、クアンチの小さな町に80,000トンもの爆弾が投下され、お城も街も原型をとどめないほどに破壊されてしまった。。。なんてことが博物館では説明され、お土産物やだと思った城門裏の建物は、忠魂碑のような塔に喧嘩をする集団の待合所のような施設だった。

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さて、要塞めぐり、

1824年の煉瓦積みの要塞だけあって、城壁はかなり崩れてしまっているけれど、残っていることが感じられる。修復された南門以外は破壊されるに任せてあり、弾痕が生々しかった。大型の爆弾が空けた穴に、崩れた城壁。献花するベトナムの人。そして、荷物を笑顔で預かってくれた、入り口のカフェの老夫婦。クアンチは小さな町、行政区としても「町」のようです。

ドンホイ要塞 / Đồng Hới Citadel

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ドンホイ要塞 / Đồng Hới Citadel

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場所

このお城も、嘉隆帝/Gia Longのベトナム統一(1802)から間も1812年にまずは土塁式で建設され、明命帝/Minh Mang期(1831〜)にフランスのヴォヴァーンのスタイルを導入し、レンガ組の現在の四角形プラス稜方式に改変されたとのこと。

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余談ですが、16世紀から18世紀まで続いた南北に王朝があった時代は、このドンホイの町からほんの少し北のGianh Riverが国境の役割を果たし、南朝の最北の街であり重要な町だったそうで、要塞が建設されてしばらく歴史を下った1885年、清仏戦争で宗主権を清から奪ってベトナムを保護国化したフランスとこの要塞にたてこもるベトナム人が戦いベトナム側が撃退したとのことです。ま、その後の歴史は厳しい植民地化なのですが一矢報いたと考えればいいのでしょうか。。

第二次大戦後の対仏独立戦争では、今度はベトナム国民側から要塞を守るフランスに対して、1945年と1954年に攻撃があったとのこと。

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細かい内容は分からないけれど、要塞の内部や近辺にある石碑や記念碑は、そのあたりの歴史が記されているのだと思います。

ベトナム戦争当時は、北ベトナムに属したドンホイは、

「石器時代に戻してやる」

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という言葉通りのひどい爆撃を受け、現在の城壁も大きな虫食いがあったであろうと思われる箇所が散見しました。そんな修復前はボロボロであったろうことが想像される要塞は、2005年からの修復がすすみ、他の要塞や都市要塞がどんな形態であったであろうかを想像できるような、往時の姿を再生した仕上がりになっていました。

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お城訪問中に白昼夢の中にいるような気持ちになり、ベトナムにしては珍しい物乞いの子供達をいなしているうちに、宿に戻ってしまい、要塞の少し南に移築された正門を訪れるのを忘れてしまったのはご愛嬌。わざわざこの要塞のためにドンホイに泊まることはないかもしれませんが、車を降りて30分くらい見物するにはいいかもしれません。

http://www.quangbinhtourism.vn/en/Destination/TourismResourcesDetail/tabid/227/ArticleId/546/DONG-HOI-CITADEL.aspx

ハティン要塞 / Ha Tinh Citadel

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ハティン要塞 / Ha Tinh Citadel

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場所

一番上の画像、どうでしょう?

水路に尖塔。なんだかヨーロッパ、それもオランダの地方都市のような感じがしませんか?

ですが、ここもまだまだベトナム。尖塔は地元ベトナムの人を信仰を集める教会のもので、水路のように見えるのはハティン要塞のジグザグな堀の一部です。

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ハティン/Ha Tinhの町は中距離バスが街中を通らずバイパスで抜けてしまうようなそれほど大きさを感じさせる町ではないのですが、人口125万人のハティン省の省都。細長いベトナムに走る北から辿ってきた背骨の道は、ここから南は西からの給料が迫って、緩やかな峠なんかが増え、広やかな土地がだんだん少なくなる土地柄です。

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だからと言ってこの要塞と関係性や歴史を紐づけることはできないのだけど。。。

写真のみのアップデート、外周をぐるっと回ってみたけれど、城内に残っている遺構は確認できなかった。

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