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後閑城



後閑城


築城時期:  嘉吉元年(1441年)

築城  :  依田氏


場所


余湖さんのページ


信州の御嶽城主、依田氏が築いた城。そういえば友達の依田君の

ご実家や八百屋さんと居酒屋をやっていて、居酒屋の名前は

「信州」だったな。



三郭の下の腰曲輪



それはよいとして、西上野は城跡がやたらある上、

キッチリと整備された山城がぼこぼこしており、城めぐりが

非常に楽しいなぁ。。。急遽決まった旅とはいえ、もう少し

このあたりの歴史を調べておけば良かったと少し後悔。。


この後閑城も非常に整備が進んでおり、遺構をたっぷりと楽しめます。

あまりにもすばらしいので、この城以降は、幅400ピクセルの画像に変更。


南の郭から本丸を望む



南の郭は二段になり、物見台が。。。



城の東の郭の連なり



城の北側は階段状の曲輪になっており、


ゆったりとした台地の尾根を大振りな空堀で分断、

主郭部を切り立たせています。



城の西は大きな曲輪が連続しており、



お城から妙義山



本丸入り口の木戸。中世城郭らしくてこれまた良いぞ!




前橋城

前橋城

築城時期:  15世紀末(再築城/1863年)
築城  :  長野氏(再築城/松平直克)

場所




前橋は、もとは厩橋ですよ、

ほとんど城の遺構は残っていないのですが、
堂々たる土塁は残っており、関東七名城に数えられたのも納得です。





1649年、厩橋は前橋に改められましたが、
江戸期の前橋城は平和な時代にもかかわらず、
利根川の浸食や地震、火事。。。

と散々な歴史をたどり、

お城はボロボロになってしまい、崩壊寸前。

城主の松平氏は、幕府の許可を得て武蔵川越に移転。

その後。。。前橋城は領民の帰城の誓願や献金による努力で、
幕末に城が再築されたものの。。。。



厩橋城だから、ウマの埴輪なのかな?近くの雑草を。。。
というより、群馬県庁前だからか。。

なんとその半年後に大政奉還!
1871年にあっという間に廃城!






その後、群馬県の中心部となり、城の一部が県庁として
利用されていたこともあったようですが、




こういうアパートなら、放浪やめて住みたくなって曲輪っ!

城の遺構は市街化でほとんど失われてしまったとさ。。。
うーん。上州料理同様、なんともしょっぱい運命。


見事な横矢がかかった大土塁。


廃城された時の瓦かな?



そうそう、明日はニューイヤー駅伝。
そういえば、前橋の町にランナーらしき方々が
たくさんいたなぁ。

お城巡りを終え、前橋駅前のドーナツやさんで
コーヒーを飲んでいたら、

隣の席が谷口浩美さんでした。

運び屋のブログですが、こんな感じで2008年は終了!
また来年!



箕輪城




箕輪城 築城時期:  永正九(1512)年、または大永六(1526)年頃 築城  :  長野尚業 場所


この城は津波のように押し寄せる武田軍団の関東侵攻に対し、 奮戦した長野業正、業盛親子の居城。関東地方は戦国末期、 北条、武田、上杉の草刈り場となりますが、義理堅く、智勇兼備を 備えた長野親子の活躍は心を打つものがあります。 ですが、上野の長野氏と越後の長尾氏に手こずったからこそ、 信玄は上洛が遅れ、大勢力となってしまった信長に勝頼の代に 攻め滅ぼされる運命をたどったともいえるかもしれません。。。 その程度の予備知識でしたが。。。ものすごい城だな。。。。 関東の中世拠点城郭では間違いなく3本の指に入るでしょう。 中世城郭好きの方々大絶賛するのも納得です。 さて、搦め手からお城へ侵入!
A 搦め手口近くの駐車場に車を停め、城に向かいます。
  有名なお城の割に、意外とのんびりとした風景です。


B 土塁で囲まれている本丸以外はなんだか守りが手薄?
  たいした防御設備もないまま二の丸の広場が眺めて見えます。
C 搦め手口から少し北上し、お城に近づいてみると、横堀が穿たれています。
  近くで見ると、林の中にどーんと小山があるような景色です。

D 搦め手同様のっぺりとした印象の城北東部の新曲輪

E 新曲輪と稲荷曲輪の間の堀跡。ここはもっと深かったでしょう。

F 稲荷曲輪の標柱と説明板。御前曲輪と70Mも高低差があるかなぁ?

G 稲荷曲輪。きっちり削平されています。

H 稲荷曲輪北西の高み、城郭主要部への侵入を抑える場所でしょうか?

I 玉木山、稲荷曲輪、御前曲輪下の堀底が交差する地点。
  城の北西からの侵入ルートは、この堀底で各曲輪から見下ろされることになります。

J 堀底には時折、このような石垣が姿を現します。

K 付近。城の内部を南北に入る堀底は、曲輪のせり出しでカーブが続き、
  本丸への直登を阻まれ、右往左往しているとかなり攻め手はかなり消耗しそうです。
 
L
M 堀底
N 本丸西堀底。うーん深い

O 三の丸に登り、蔵屋敷方面をみると、段差が確認できます。

P
Q
R 苔むした三の丸の石垣。うん、味があるぞ

S1 さて、ここが見所大堀切。別名箕輪キャニオン。
  説明板にもあるように、人々の労苦には驚嘆させられます。

S2 とにかく深い堀切。こんなの見たこと無いよ。。

T そういえば、高崎城の大手あたりにも鍛冶町という地名があったな。
  野鍛冶がうった、鉄箸やそれで作った風鈴とかも味があるんだよなぁ。。
  おっと、脱線しましたが、この鍛冶曲輪では、城を普請する際の釘や
  刀や槍を初めとする、武具なんかを作っていたんでしょうね。
  武田信玄を迎え撃つ頃は鉄砲玉とかも作ってたかな?
U
T
V 二の丸から三の丸に続く土橋。


V 三の丸に土橋が繋がる場所には石がごろり。石垣と木戸で守られていたのかな?


W 郭馬出し。二の丸とは土橋だけで繋がっており、東西南の三方を
  見下ろすような位置高みがあり、重要な防御拠点だったようです。


Y 台地が二股に分かれ、それらが南北に郭を連ねるため、郭馬出し同様、
  城の南側の重要拠点だった「木俣」5方向に分かれる場所なので「木」股
  とはよく言ったなぁ。

Z 城の西側の曲輪。


1 木俣の周囲は所々、石垣が残っていました。


2 城の南西部へも曲輪が連なり、クランクした土橋などで結ばれています。


3 郭馬出しに見下ろされながら城の中心部へ



4

5 本丸南の堀 これまた深い


6

7

8 本丸西側の土塁。折りをなすような曲輪の連なりや、急峻な崖のない
  城の西側から本丸内部の様子を伺わせないための遺構でしょうか?


9 本丸と御前曲輪を隔てる空堀


10 長野業盛が討ち死にしたといわれる御前曲輪


11 城内側から搦め手門へ。

お城のホームページで、書き尽くされていることですが、
際だつ堀切や曲輪の連携などでのディフェンスが甘いような気がします。

榛名山からの裾野で、周囲を含めて北から南へ傾斜している地形なため、
どうも城の南半分が椿名沼という沼で覆われていたことが、
どうもイメージしにくいのですが、まあ見事なお城でした。

うーん。感動したなぁ。。。



根小屋城

根小屋城

築城時期:  永禄十一(1568)年
築城  :  武田信玄

場所

ウモさんのページ

お城巡りしていれば、やたら出くわす名前を
堂々と冠したお城。






山名城から尾根伝いの道を1キロほど歩いた台地先端部に
築かれた山城です。

で、この城。

公園化がほどよく進んでいて、藪が払われており、
折り重なるような腰曲輪や、横堀、見上げるような本丸が
くっきりと浮かび上がり、見応えがあるお城です。

台地の稜線先端部に築かれたとはいえ、くっきりと城域を隔てる
稜線が途切れた地形をうまく利用して築かれており、なかなか
手強そうな中世山城です。

さて、攻略。

稜線から城に向かう。カメラを縦にしても城の全容が
が入りきらない

山名城からの稜線を伝うハイキングコースを進んでゆくと、
怪しく立ちはだかるひときわ高い山が見えてきます。

ハイキングコースを伝ってゆくと、その高い山を目前にして、
稜線がぐーっと下りになり、高い山(=根小屋城)の姿が明らかになってきます。

まずは、西側稜線伝いに攻めてくる敵に対しての防御遺構の
堀切がくっきり。その堀切が二つ穿たれ、さらにその上に切岸、
そしてその上に腰曲輪、その上には本丸が控えているので、キッチリ
兵力を配せば、かなりの消耗を強いられそうな印象があります。

堀切

もういっちょ!堀切

それらの防御遺構を左手に、城の北側のハイキングコースを
進んでゆくと、その右手には切り岸と腰曲輪が配された
城の北側の遺構を見ることができます。たいていの山城は、
藪に阻まれて腰曲輪を楽しむことなんてできないのですが、
この根小屋城では、たっぷりと確認することができます。



本丸を左手にハイキングコースを上ってゆくと、その小径は
城の南側のゆったりとした腰曲輪に挟まれるようになり、
いつしか本丸を取り囲み、腰曲輪を隔てる横堀の一部になります。


真っ平らな本丸南側の腰曲輪


腰曲輪と本丸下の切岸


そこそこの山城を見てきましたが、横堀というとたいていは
埋まってしまっていたり、藪で何が何だか分からなくなっていることが
多い胃ので、非常に満足。

また、横堀を形作る、本丸南側の腰曲輪は、
キッチリとした削平され、腰曲輪馬鹿な運び屋は「おおぅ」
とうなってしまうのです。


大手周辺のぼこぼことした遺構。

腰曲輪は、城の南東で大手跡の複雑なでこぼこで一時途絶えますが、
本丸下、東側は非常にわかりやすい腰曲輪と横堀で防御されています。

本丸東の横堀

さて、本丸。

枡形(画面左が入り口)

南東部に枡形が配されて、本丸への容易な進入を防いでいます。

本丸東の腰曲輪の連続

本丸をふらつき、本丸崖下の横堀を楽しんだ後は、
その横堀から伸びる竪壕。横堀ほどキッチリ遺構が
浮かび上がっていませんが、ぱっと思い浮かぶお城の
防御システムがそこかしこに配されています。




本丸(左)と二の丸(右)を隔てる堀切

二の丸

本丸下の横堀や堀切をたどって、見物していると
城の南西部の崖にたどり着いてしまい、そこを
無理に下っため、最後は忍法木の葉隠れ状態になってしまいましたが、
大満足なお城でした。

オススメ。

山名城と根小屋城を結ぶ稜線上から、遠く信州の山々を望む





石倉城



石倉城 築城時期:  文明17(1485)年 築城  :  長尾憲景 場所 余湖さんのページ いろいろなお城のサイトで、福田赳夫のお城の揮毫が子供の落書きなどと かかれていますが、旧群馬3区はやたらと総理大臣を出している保守な土地柄。 今度の中曽根外相がいつか総理大臣になったら。。何人目だ?

中曽根康弘、小渕恵三、福田親子で4人。中曽根外相が総理になったら このあたりから5人目か。。。 まあいいや、そんなこんなで、群馬県は必要かい?っていう立派な 道路や、公共の建物が多い。ただ榛名や赤城の裾野がすわーっと広がるように、 公共投資はあらゆる人にまんべんなく渡ってはいない感じだな。。。

で、こちらは石倉城。利根川を挟んだ前橋城の対岸に崖に築かれた お城です。。ただ、血なまぐさいこの城の歴史を偲ぶような遺構は ありませんでした。。。

山名城

山名城

築城時期:  鎌倉時代
築城  :  山名氏


場所





山名氏というと、応仁の乱や山陰地方の守護大名を
連想し、関東の片田舎から出たというと驚かれるかもしれませんが、

山名氏は、源義家の孫、新田義重の子義範がこの
山名郷に拠り、そこから山名氏を称したそうです。



いずれにせよ、源氏や平家の庶流が関東に散らばり関東武士を形成し、
武士の次代になって日本各地に広がった
名族のルーツなのであります。

応仁の乱では覇を争うほどの勢力となった山名氏ですが、
結局守護大名系の名族というのは、室町後期になると、
進行の戦国大名に圧され、風船がしぼむように領土が減り、
姿を消してしまいます。うーん、はかないですね。



さて、お城に向かいます。


山名郷

お城は妙義山など、関東平野の西に聳える山々の一筋が、
関東平野に一番せり出した台地の先端部に位置し、
その先端部の頂上部に築かれています。

鏑川が烏川に合流し、富岡方面からの下仁田道と
中山道をにらむ重要な場所に位置しています。

直登ルートがないので、山名集落の谷間に入ったところから始まる、
ハイキングルートを登っていきますが、途中で岩屋を備えた
古墳に出くわします。



山上古墳。

見晴らしの良い場所や、そこから少しそれた場所の
台地の中には、かなり古墳や墳丘墓があるんだよな。。。

少し山名城の城域からは距離があるので、よく
中世の城や周辺ある「物見塚」にはされなかったでしょう。

いずれにせよ、ハイキングルートが始まると墓地が左右に
あったり、古墳を越えしばらく歩いても造成された
墓地が売りに出ていたり、何かとお墓がらみな場所です。

でも、岩屋を備えた古墳に見下ろされれば、今の時代に
天寿を全うした方も、満足かもしれないなぁ。。。



ずんずんハイキングルートを進んでいくと、山名城の案内板。
脇に山名城へ続く小径が続いています。



小径は腰曲輪のようなをたどると、崖上にくっきりとした堀切。





しばらく進むと、腰曲輪(途中から横堀?)が続く城を周遊する小径と
本丸と本丸西側の郭を隔てる堀切に進む小径にぶつかり、
堀切を登りきると本丸の削平地に。

本丸&二の丸南のゴツゴツした遺構

腰曲輪

城の北東部に、パリッとした横堀や遺構が残っているようなのですが、
藪に阻まれ、城の南側のごつごつした腰曲輪や小さな郭を見て回り、



二郭に登ってお城巡りは終了。











一郷山城

一郷山城

築城時期:  永享10年(1438年)頃
築城  :  上杉憲実





一番手前の山影、左(東)にかけて尾根が低くなっているのが
一郷山城がある牛臥山。

日本各地の牛臥、虎臥という名の山に、山城が築かれていますが、
牛が寝たような形の山というのは、尾根が平たくなっていたりすることが、
お城に向いている(or 築城の過程で削平された)のかもしれません。



で、模擬天守。中はこれもおなじみのパターンで
資料館と展望台の役目を担っています。。。

まったく。。。




お城の中には城の縄張り図や古文書の写し、このあたりの
戦国期の歴史などの資料があります。



しかし、この城の主要部は現在、この模擬天守と
駐車場になって見る影もありません。

展望天守東の稜線を降りると、写真のように、小さな郭が
連続しているのを確認できます。

ということで、残念ながらこの城で見るべきものは
あまりありません。。。。

ということで、このお城からいろんなものを
見てみましょう!




雪の浅間に


猫背の高崎観音

実際は、ジオラマや眺望図などが展望台(眺望最高)にあるので、
三方を山に囲まれた上州の地勢・地形と、このあたりに
築かれた城のおさらいができるので、なかなか楽しめる場所でした。。。






上野城巡り

ハァハァ

懐が寂しいので、今年は安近短な年末年始!

吉井陣屋
小幡陣屋
箕輪城
麻場城
新堀城
一郷山城
山名城
根小屋城
後閑城
鷹の巣城
磯部城
簗瀬城
松井田城

庭谷城


前橋城

石倉城


を攻略したものの。。。


近々アップ。。。アップできるかなぁ。。。

////後日////

正月四日の朝にアップ終了!

にゃはは、確定申告の準備やら何やらは
城めぐりとそのまとめで全くできなかったけどね、
いいんですよ。。それでいいんです。

小幡陣屋

 小幡陣屋 築城時期:  1615年 築城  :  織田信雄 場所


鏑川対岸からの陣屋ともに造営された楽山園の様子
織田信長の次男、信雄。

土塁や空堀が再現されているようだけど、工事中だった。。

小牧長久手で家康と結んだり、何かとヘタレの印象が強いのですが、
信雄の代から、何代かが治めた小幡の町並みは、なかなかであります。



信雄同様、子孫も領地経営や内紛で行き詰まり、結局は改易され、
小幡藩は松平氏の代で幕末を迎えますが、廃藩置県まえの混乱期には、
この地方の一揆軍に降伏したりと、なかなか悲しい歴史をたどっています。

ゆったりとした中小路。小路といえども楽に現代の4車線ほどの幅員。
ただ、城下町(石高的に城主格を与えられていたため、小幡城とも) を冠していて、萩や金沢、飛騨高山のような香り立つような空気はない ものの、ゆったりとした甘楽町を南北に流れる雄川堰とそばの古い町並みや、

食い違い門
陣屋周辺のゆったりとした小路など、なかなか雰囲気がありますよ。



吉井陣屋

 吉井陣屋 築城時期:  1752年 築城  :  松平信有 場所

余湖さんのページ 篤姫、直江兼続の盛り上がりをよそに、上州攻略。 何とも見事な中正城郭が多いので、陣屋と遺構の少ないお城から アップデートです。 吉井藩(1万石)の陣屋跡ですが、平地で町の中心部ということもあり ほとんど遺構は残っておりません。西上野一帯は、利根川流域の谷間に 小藩が乱立し、田畑を広げるような土地に乏しくまあ大変だったでしょう。 鷹司家の血を引くお公家様だったからか、家格は高かったそうです。

移築された表門。 上信電鉄の駅は、なんでこう昭和な空気が漂うのでしょう。。。 陣屋があったあたりは、吉井駅と同じくレトロな感じがし、 古くからの町並みであることを感じることができますよ。

こういう場所で朽ち果てるのもなんだか良いかも。 陣屋周辺には鍛治町という名前があったりします。

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