品川第六台場
築城者:徳川幕府 / 設計者:江川太郎左衛門英龍
築城年:幕末 1854(嘉永7)年
参考にさせて頂いたサイト Wild Windさんページ江戸の守りは品川台場で編
リンク 場所1947年形はキッチリ残っていますが、残念ながら渡船を使わなければたどり着けない、近づけない台場。ただ、上から眺めるだけならば無料開放されているレインボーブリッジから是非覗き込んでみてください。
また、五角形をしたこの台場の一辺が、お隣の第三台場の城壁南側をサポートする位置にあることに注目*してみてください。
*要塞といのは、要塞の城壁の下に取りつかれると弱いのです。
→ 下にとりつかれると、爆薬をしかけられ城壁をドッカーン!
→ 下の敵を城壁上から攻撃しようとすると、恰好の標的に。。
ーーーー品川台場テンプレートーーーーーー
1947年の地図 by 米軍 Goo古地図より上の写真に現在の道路を重ねたモノ。ペ
リーの浦賀への来航を受けた江戸幕府は、太平の眠りから覚め、エイヤで、江戸湊防御のための海上砲台群の建設を二ヶ月後には開始し、当時の築城技術からは
遅れているとはいえ、一年足らずで、建設を予定していた11基のうち一、二、三、五、六台場を完成。四、七台場も未完ながら、建設を進め、陸上には海上砲
台群と連携する下御殿山台場を建設しています。
1947年の写真で確認できる、第一、三、二、五台場の4つは、正方形の一つを削ったような五角形をしており、第六台場はほぼ正方形。並列でなくジグザグに一つ一つの台場が建設されており、死角をなくし、相互の台場が連携できるようなシステムのようだ。
奥が第六台場、右手前が第三台場。ジグザグで隣の台場と連携!台場が五角形をしているのは、削り落とした面を侵入してくる船に対しての砲を置き、短くなった左右二つの辺は、左右の台場の死角をサポート。
というように、火線が途切れない工夫がされており、一つ一つはさえないけれど、連携することで防御を強化しようとしたことが伺える。
工事は日米和親条約の締結に伴い中断し、現存するのは、第三台場と第六台場のみ。
第四台場は天王洲の埋立地に埋没し、第二台場は航路拡張のため撤去されています。第一台場と第五台場は品川埠頭の埋立地に飲み込まれ、第七台場が撤去されたようです。
前回の眺めの帰国時、2011年11月、品川博物館で品川台場群の特別展が開かれていたようだけど、チャンスを逸してしまった。。うが!