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Day-0003 京成津田沼駅 → 亀戸駅 / Keisei Tsudanuma Station to Kameido Station

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Day-0003 京成津田沼駅 → 亀戸駅 / Keisei Tsudanuma Station to Kameido Station

<3日目>
今日の歩距離 : 21.48km
今日の宿泊先:中野基地

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午前中はガッツリ成田で仕事をしていたので、出発は午後。京葉道路をくぐり、入り江の奧の油の浮いた漁港の脇を通り、南海神の京浜工業地帯といった、海のみえない埋め立て地をひたすら西に歩く。

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川を越えて視界が広がると、スカイツリーが遠望でき、川を越えるたびに当然大きくなってくる。GPSソフトで所要時間が出るのは当然有り難いけれど、普段の生活ではまず有り得ない距離を歩き、豆粒のようだった遠い目的地を引き寄せるようにして歩を進め、近づきの感覚/快感がビリビリくるのが素晴らしい。

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潜水士の方々。格好いい!

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なかなか立ち止まることのできない旅な上、ひたすら退屈な町を歩き続ける、ほとんど修行のような心持ちなの1日だったので、川を越えようと土手にのぼり、スカイツリーをぐっと見据え、歩き抜けたゴチャゴチャした家並みを振り返るのが気持ちよく、テンションが高いので、住む人の泣き笑いまでがヒシヒシと感じられてしまった。。。

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亀戸!!

というのは嘘。でも、川を越えるのは兎に角気持ちがイイ。魚がいればもっと楽しいのだけど。

思いの外イイペースで歩くことができ、当初の予定より早く新小岩までたどり着いたので、目的地を変更。勢いをかって平井大橋を越え、亀戸まで歩く。

平井大橋から眺めるスカイツリーが暮れ泥む空に映える。シェイプとしては東京タワーに軍配が上がるけれど、東京の新ランドマークでありつつ、明るい毒電波をビシビシ飛ばし続けて頂きたい。

亀戸から数駅戻って本八幡。

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2年前のウシュアイアでご一緒させて頂いた岳さんと、トモさんとお酒。お二人は、旅人レベルが高いだけでなく、帰国後もしっかり先を見据え、足元を固めた人生を送っている。やりたいことを一つ一つ実現し、会うたびに、状況を前に進めてる。日本に帰るなり悩み多きニートになってしまった誰かとは大違いだ。。

2軒目で食事をしていると大きな揺れ。揺れが長いので震源地近くのことが心配になるが、大きな事にはならなかったようだ。どうにかならないものか。。

2012年3月14日

四国八十八億箇所巡り

四国八十八億箇所巡り

伊集院の深夜の馬鹿力の録音(26日)を聴いたら、なんと、オープニングのフリートークで、伊集院がお遍路のことについてちょろっと!

「四国八十八万箇所巡り」「四国八十八億箇所巡り」「愛媛八十八億箇所巡り」

だって。。。まわれねーっつーの!

数年間がっつり馬鹿力を聴いてきたけれど、遍路のことは出てこなかったよなぁ。お遍路出発前最後の放送で、こんなのが聴けるとは。

幸先良いってこのこと?Podcastにも残っており聴けますよ!どうぞ!


御殿山下台場

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御殿山下台場

築城者:徳川幕府 / 設計者:江川太郎左衛門英龍
築城年:幕末 1854(嘉永7)年

参考にさせて頂いたサイト Wild Windさんページ江戸の守りは品川台場で編 リンク 


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場所


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1947年

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御殿山の土を削って、築いた陸上砲台。遺構は残っておらず、敷地を引き継いだ台場小学校に名前と角張った地形のみを残している。

ーーーー品川台場テンプレートーーーーーー


1947年の地図 by 米軍 Goo古地図より


上の写真に現在の道路を重ねたモノ。

ペ リーの浦賀への来航を受けた江戸幕府は、太平の眠りから覚め、エイヤで、江戸湊防御のための海上砲台群の建設を二ヶ月後には開始し、当時の築城技術からは 遅れているとはいえ、一年足らずで、建設を予定していた11基のうち一、二、三、五、六台場を完成。四、七台場も未完ながら、建設を進め、陸上には海上砲 台群と連携する下御殿山台場を建設しています。

1947年の写真で確認できる、第一、三、二、五台場の4つは、正方形の一つを削ったような五角形をしており、第六台場はほぼ正方形。並列でなくジグザグに一つ一つの台場が建設されており、死角をなくし、相互の台場が連携できるようなシステムのようだ。

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奥が第六台場、右手前が第三台場。ジグザグで隣の台場と連携!

台場が五角形をしているのは、削り落とした面を侵入してくる船に対しての砲を置き、短くなった左右二つの辺は、左右の台場の死角をサポート。

というように、火線が途切れない工夫がされており、一つ一つはさえないけれど、連携することで防御を強化しようとしたことが伺える。

工事は日米和親条約の締結に伴い中断し、現存するのは、第三台場と第六台場のみ。

第四台場は天王洲の埋立地に埋没し、第二台場は航路拡張のため撤去されています。第一台場と第五台場は品川埠頭の埋立地に飲み込まれ、第七台場が撤去されたようです。

前回の眺めの帰国時、2011年11月、品川博物館で品川台場群の特別展が開かれていたようだけど、チャンスを逸してしまった。。うが!


品川第四台場

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品川第四台場

築城者:徳川幕府 / 設計者:江川太郎左衛門英龍
築城年:幕末 1854(嘉永7) 年

参考にさせて頂いたサイト Wild Windさんページ江戸の守りは品川台場で編 リンク 

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場所


1947年

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Square Sea Fortだったら、四角い海上要塞っていう意味合いが強かったのに。でも、敢えてそうなづけたのかな?

第四台場は、建設途中で日米和親条約が結ばれ、完成に至っていないそうだ。1947年の米軍の航空写真を見る限り、天王洲の人口島の一部になって、遺構らしきモノはほぼ湮滅している。が、第四台場があった場所は、現在、第一ホテル東京「シーフォート」になっており、海上(小)要塞があったことをささやかながら名前に残している。

また、味気ない海岸線でおなじみの東京湾にあって、このシーフォート周辺は、ガッチリと石垣で護岸されており、味がある。なんとこの石垣、第四台場の石垣を一部再利用しているそうだ。

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イイネ!

護岸を散歩して、湾岸通りにぶつかる辺りの石垣は、齢を重ねていることが感じられ、パチッとし過ぎたシーフォートスクエア周辺の石積みより味がある。おそらく台場で使用されたモノだろう。。

ーーーー品川台場テンプレートーーーーーー


1947年の地図 by 米軍 Goo古地図より


上の写真に現在の道路を重ねたモノ。

ペ リーの浦賀への来航を受けた江戸幕府は、太平の眠りから覚め、エイヤで、江戸湊防御のための海上砲台群の建設を二ヶ月後には開始し、当時の築城技術からは 遅れているとはいえ、一年足らずで、建設を予定していた11基のうち一、二、三、五、六台場を完成。四、七台場も未完ながら、建設を進め、陸上には海上砲 台群と連携する下御殿山台場を建設しています。

1947年の写真で確認できる、第一、三、二、五台場の4つは、正方形の一つを削ったような五角形をしており、第六台場はほぼ正方形。並列でなくジグザグに一つ一つの台場が建設されており、死角をなくし、相互の台場が連携できるようなシステムのようだ。

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奥が第六台場、右手前が第三台場。ジグザグで隣の台場と連携!

台場が五角形をしているのは、削り落とした面を侵入してくる船に対しての砲を置き、短くなった左右二つの辺は、左右の台場の死角をサポート。

というように、火線が途切れない工夫がされており、一つ一つはさえないけれど、連携することで防御を強化しようとしたことが伺える。

工事は日米和親条約の締結に伴い中断し、現存するのは、第三台場と第六台場のみ。

第四台場は天王洲の埋立地に埋没し、第二台場は航路拡張のため撤去されています。第一台場と第五台場は品川埠頭の埋立地に飲み込まれ、第七台場が撤去されたようです。

前回の眺めの帰国時、2011年11月、品川博物館で品川台場群の特別展が開かれていたようだけど、チャンスを逸してしまった。。うが!


品川第一台場

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品川第一台場

築城者:徳川幕府 / 設計者:江川太郎左衛門英龍
築城年:幕末 1854(嘉永7)年

参考にさせて頂いたサイト Wild Windさんページ江戸の守りは品川台場で編 リンク 

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場所


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1947年

第一台場も、第五台場同様、品川埠頭建設に伴う埋め立てに伴い湮滅。1947年の航空写真と現在の地図を照らし合わせると、品川埠頭人工島の入国管理局より南の辺りにあったと思われる。因みに入国管理局ビルを挟んだ北には、五番台場があった。

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何故か第五台場交番が近くにあり、そこから天王洲に渡り、第四台場があったとされる、「第一ホテル東京シーフォート」にいくことができる。

ーーーー品川台場テンプレートーーーーーー


1947年の地図 by 米軍 Goo古地図より


上の写真に現在の道路を重ねたモノ。

ペ リーの浦賀への来航を受けた江戸幕府は、太平の眠りから覚め、エイヤで、江戸湊防御のための海上砲台群の建設を二ヶ月後には開始し、当時の築城技術からは 遅れているとはいえ、一年足らずで、建設を予定していた11基のうち一、二、三、五、六台場を完成。四、七台場も未完ながら、建設を進め、陸上には海上砲 台群と連携する下御殿山台場を建設しています。

1947年の写真で確認できる、第一、三、二、五台場の4つは、正方形の一つを削ったような五角形をしており、第六台場はほぼ正方形。並列でなくジグザグに一つ一つの台場が建設されており、死角をなくし、相互の台場が連携できるようなシステムのようだ。

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奥が第六台場、右手前が第三台場。ジグザグで隣の台場と連携!

台場が五角形をしているのは、削り落とした面を侵入してくる船に対しての砲を置き、短くなった左右二つの辺は、左右の台場の死角をサポート。

というように、火線が途切れない工夫がされており、一つ一つはさえないけれど、連携することで防御を強化しようとしたことが伺える。

工事は日米和親条約の締結に伴い中断し、現存するのは、第三台場と第六台場のみ。

第四台場は天王洲の埋立地に埋没し、第二台場は航路拡張のため撤去されています。第一台場と第五台場は品川埠頭の埋立地に飲み込まれ、第七台場が撤去されたようです。

前回の眺めの帰国時、2011年11月、品川博物館で品川台場群の特別展が開かれていたようだけど、チャンスを逸してしまった。。うが!


品川第五台場

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品川第五台場があったと推定される辺り。プレートでも残せばいいのに。

品川第五台場

築城者:徳川幕府 / 設計者:江川太郎左衛門英龍
築城年:幕末 1854(嘉永7)年

参考にさせて頂いたサイト Wild Windさんページ江戸の守りは品川台場で編 リンク 

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1947年

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場所

この第五台場と、第一台場も1947年の航空写真には残っているけれど、品川埠頭建設に伴う埋め立てに伴い湮滅。台場があった場所を歩いて見ましたが、痕跡はなく、プレートくらいあってもいいと思うけれど、なにも見つからなかった。古地図などを参考にすると、品川埠頭の入国管理局より北、ヤマト運輸がある辺りと推定できる。

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左手の十字型の建物が入国管理ビル。このビルを挟んで南西に第一台場があった。

品川埠頭がある人工島の南に、第五台場交番という、この辺りに台場があったことを偲ばせる交番があるけれど、第五台場より、第一台場があった場所の近くに位置している。


ーーーー品川台場テンプレートーーーーーー


1947年の地図 by 米軍 Goo古地図より


上の写真に現在の道路を重ねたモノ。

ペ リーの浦賀への来航を受けた江戸幕府は、太平の眠りから覚め、エイヤで、江戸湊防御のための海上砲台群の建設を二ヶ月後には開始し、当時の築城技術からは 遅れているとはいえ、一年足らずで、建設を予定していた11基のうち一、二、三、五、六台場を完成。四、七台場も未完ながら、建設を進め、陸上には海上砲 台群と連携する下御殿山台場を建設しています。

1947年の写真で確認できる、第一、三、二、五台場の4つは、正方形の一つを削ったような五角形をしており、第六台場はほぼ正方形。並列でなくジグザグに一つ一つの台場が建設されており、死角をなくし、相互の台場が連携できるようなシステムのようだ。

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奥が第六台場、右手前が第三台場。ジグザグで隣の台場と連携!

台場が五角形をしているのは、削り落とした面を侵入してくる船に対しての砲を置き、短くなった左右二つの辺は、左右の台場の死角をサポート。

というように、火線が途切れない工夫がされており、一つ一つはさえないけれど、連携することで防御を強化しようとしたことが伺える。

工事は日米和親条約の締結に伴い中断し、現存するのは、第三台場と第六台場のみ。

第四台場は天王洲の埋立地に埋没し、第二台場は航路拡張のため撤去されています。第一台場と第五台場は品川埠頭の埋立地に飲み込まれ、第七台場が撤去されたようです。

前回の眺めの帰国時、2011年11月、品川博物館で品川台場群の特別展が開かれていたようだけど、チャンスを逸してしまった。。うが!


品川第二台場

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品川第二台場があった海域

品川第二台場

築城者:徳川幕府 / 設計者:江川太郎左衛門英龍
築城年:幕末 1854(嘉永7)年

参考にさせて頂いたサイト Wild Windさんページ江戸の守りは品川台場で編 リンク 


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場所

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1947年

1947年の時点ではキッチリ残っているけれど、東京湾内の航路の確保のために、その後撤去。現在では品川埠頭と東京臨海副都心の間の水域にじーっと目を凝らし、台場があった場所をイマジンするのみ。

ーーーー品川台場テンプレートーーーーーー


1947年の地図 by 米軍 Goo古地図より


上の写真に現在の道路を重ねたモノ。

ペ リーの浦賀への来航を受けた江戸幕府は、太平の眠りから覚め、エイヤで、江戸湊防御のための海上砲台群の建設を二ヶ月後には開始し、当時の築城技術からは 遅れているとはいえ、一年足らずで、建設を予定していた11基のうち一、二、三、五、六台場を完成。四、七台場も未完ながら、建設を進め、陸上には海上砲 台群と連携する下御殿山台場を建設しています。

1947年の写真で確認できる、第一、三、二、五台場の4つは、正方形の一つを削ったような五角形をしており、第六台場はほぼ正方形。並列でなくジグザグに一つ一つの台場が建設されており、死角をなくし、相互の台場が連携できるようなシステムのようだ。

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奥が第六台場、右手前が第三台場。ジグザグで隣の台場と連携!

台場が五角形をしているのは、削り落とした面を侵入してくる船に対しての砲を置き、短くなった左右二つの辺は、左右の台場の死角をサポート。

というように、火線が途切れない工夫がされており、一つ一つはさえないけれど、連携することで防御を強化しようとしたことが伺える。

工事は日米和親条約の締結に伴い中断し、現存するのは、第三台場と第六台場のみ。

第四台場は天王洲の埋立地に埋没し、第二台場は航路拡張のため撤去されています。第一台場と第五台場は品川埠頭の埋立地に飲み込まれ、第七台場が撤去されたようです。

前回の眺めの帰国時、2011年11月、品川博物館で品川台場群の特別展が開かれていたようだけど、チャンスを逸してしまった。。うが!


品川第六台場

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品川第六台場

築城者:徳川幕府 / 設計者:江川太郎左衛門英龍
築城年:幕末 1854(嘉永7)年

参考にさせて頂いたサイト Wild Windさんページ江戸の守りは品川台場で編 リンク 

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場所

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1947年

形はキッチリ残っていますが、残念ながら渡船を使わなければたどり着けない、近づけない台場。ただ、上から眺めるだけならば無料開放されているレインボーブリッジから是非覗き込んでみてください。

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また、五角形をしたこの台場の一辺が、お隣の第三台場の城壁南側をサポートする位置にあることに注目*してみてください。

*要塞といのは、要塞の城壁の下に取りつかれると弱いのです。
 → 下にとりつかれると、爆薬をしかけられ城壁をドッカーン!
 → 下の敵を城壁上から攻撃しようとすると、恰好の標的に。。

ーーーー品川台場テンプレートーーーーーー


1947年の地図 by 米軍 Goo古地図より


上の写真に現在の道路を重ねたモノ。

ペ リーの浦賀への来航を受けた江戸幕府は、太平の眠りから覚め、エイヤで、江戸湊防御のための海上砲台群の建設を二ヶ月後には開始し、当時の築城技術からは 遅れているとはいえ、一年足らずで、建設を予定していた11基のうち一、二、三、五、六台場を完成。四、七台場も未完ながら、建設を進め、陸上には海上砲 台群と連携する下御殿山台場を建設しています。

1947年の写真で確認できる、第一、三、二、五台場の4つは、正方形の一つを削ったような五角形をしており、第六台場はほぼ正方形。並列でなくジグザグに一つ一つの台場が建設されており、死角をなくし、相互の台場が連携できるようなシステムのようだ。

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奥が第六台場、右手前が第三台場。ジグザグで隣の台場と連携!

台場が五角形をしているのは、削り落とした面を侵入してくる船に対しての砲を置き、短くなった左右二つの辺は、左右の台場の死角をサポート。

というように、火線が途切れない工夫がされており、一つ一つはさえないけれど、連携することで防御を強化しようとしたことが伺える。

工事は日米和親条約の締結に伴い中断し、現存するのは、第三台場と第六台場のみ。

第四台場は天王洲の埋立地に埋没し、第二台場は航路拡張のため撤去されています。第一台場と第五台場は品川埠頭の埋立地に飲み込まれ、第七台場が撤去されたようです。

前回の眺めの帰国時、2011年11月、品川博物館で品川台場群の特別展が開かれていたようだけど、チャンスを逸してしまった。。うが!


品川第三台場

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品川第三台場

築城者:徳川幕府 / 設計者:江川太郎左衛門英龍
築城年:幕末 1854(嘉永7)年

参考にさせて頂いたサイト Wild Windさまページ江戸の守りは品川台場で編 リンク 

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場所

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1947年!

二昔前は、文字通りの海上要塞で、お台場と言えば渡船で上陸し、お魚釣り!な場所だったけど。現在では、テレビ局やショッピングモールが入った「お台場」に向かい合う、興味のない方にとっては四角い謎の公園といったところかな?

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砲台は、稜方要塞とは言い難い、真四角なシェイプ。松林と芝生のコントラストが日本的だけれど、日本の城郭には珍しい武者返し(はねだし)などが散見されます。

お台場の人混みに息が詰まったら是非!食用に適しているかどうかは別にして、台場の周囲の海岸には牡蠣がビッチリついてますよ!

ーーーー品川台場テンプレートーーーーーー


1947年の地図 by 米軍 Goo古地図より


上の写真に現在の道路を重ねたモノ。

ペ リーの浦賀への来航を受けた江戸幕府は、太平の眠りから覚め、エイヤで、江戸湊防御のための海上砲台群の建設を二ヶ月後には開始し、当時の築城技術からは 遅れているとはいえ、一年足らずで、建設を予定していた11基のうち一、二、三、五、六台場を完成。四、七台場も未完ながら、建設を進め、陸上には海上砲 台群と連携する下御殿山台場を建設しています。

1947年の写真で確認できる、第一、三、二、五台場の4つは、正方形の一つを削ったような五角形をしており、第六台場はほぼ正方形。並列でなくジグザグに一つ一つの台場が建設されており、死角をなくし、相互の台場が連携できるようなシステムのようだ。

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奥が第六台場、右手前が第三台場。ジグザグで隣の台場と連携!

台場が五角形をしているのは、削り落とした面を侵入してくる船に対しての砲を置き、短くなった左右二つの辺は、左右の台場の死角をサポート。

というように、火線が途切れない工夫がされており、一つ一つはさえないけれど、連携することで防御を強化しようとしたことが伺える。

工事は日米和親条約の締結に伴い中断し、現存するのは、第三台場と第六台場のみ。

第四台場は天王洲の埋立地に埋没し、第二台場は航路拡張のため撤去されています。第一台場と第五台場は品川埠頭の埋立地に飲み込まれ、第七台場が撤去されたようです。

前回の眺めの帰国時、2011年11月、品川博物館で品川台場群の特別展が開かれていたようだけど、チャンスを逸してしまった。。うが!


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