台南府城 / Tainan City Wall
場所
オランダを下した鄭軍が清朝に下り、清朝の領土となった台湾島には台湾府が設立されたが、当時の台湾島の中心であった現在の台南がその地となった。けれど、都市囲郭をもたなかった為、朱一貴の乱などで、易々と台湾府は落とされてしまったため、清朝は台湾府を守る「城/都市囲郭」の建設に着手する。第一段階として、台湾府とその町を木材や竹を用いた囲いと門で固める都市囲郭を築き、乾隆帝の1788年に土づくりの都市囲郭を完成させた。これらの囲郭は、それぞれ「木柵」「土城」と呼ばれた。
清朝の施政下に置かれても長いこと、台湾島のほとんどはフロンティアであり、台湾ネイティヴとの衝突の歴史が長く、台湾各地の漢人は、襲撃に備え「木柵」や「土城」で集落を守っていたようで、古地図には、おもちゃのように描かれた集落が、きっちり「木柵」や「土城」で囲われているものを見ることが出来、台湾の地下鉄にはそういった由来からくる地名が今も多く残り、台湾のMRTには、「木柵駅」も「土城駅」が存在する。
ついでに言うと、「土城駅」は、釜山や天津にもある。
台南府城の城壁は総延長8873メートルと、長大で、現在の台南の主要部もきっちり内包するなかなかの規模。現在の皇居一周コースが約5キロというから、その城壁と台南府城の規模がなかなかのものだったのは納得いただけるかもしれない。
その城壁は日本統治時代の都市計画により撤去されてしまったが、一部の城門が残っている。
台北の城壁跡がほぼ完全な形の環状線になっているのとは違い、台南府城の城壁は、もともといびつな形をしていたため、そのまま環状線に出来なかったのか、往時の城壁跡が分かりやすく現在の主要道路になってたどることができるのは、西門路くらいとなっている。
今回は、いくつか保存されている城門のうちで、保存状態の良さそうな大南門を訪れたが、この日本の枡形/馬出しに相当する、大南門の甕城の遺構は、休園日?の為に見ることが出来なかった。