国立民族博物館
鳥獣戯画の絵巻を拝み、作者とカエルについて語り合いたいし、関ヶ原の合戦絵巻で日和った秀秋を罵ってやりたい。。。。けれど。。やっぱり混んでる。。
そうだ、それなら。。国立民族博物館にいこう。南アジアの湿り気を帯びたスパイシーな風や、ドンブラの調べが運んでくるシャシリクの煙、店の子供がフォークとナイフをペーパーに包む、ガシャガシャクルクルといったアメリカの中華料理屋の音を聞きに行こう。みんぱくに行こう。
みんぱく。誤解を恐れずに言えば、日本ばかりでなく、世界各地の村や町の役場の脇なんかにポツーンとたっている、土地の歴史を説明しつつ人々の生活道具を並べている民芸館、資料館といった施設の親玉みたいなものだ。
民芸館や資料館を見て回り、「ああ、昔はここはこんなところだったのね。。レンジも炊飯器もコンロもない時代の昔の人は大変だったろうね。。ふぅ」なんて言い、民具を手にとってみたりするんだけど、民芸館から出ると、その手でデートしてる彼女のお尻をつかんだり、ファミレスのドリンクバーのコップを持ったりして、展示物のこともその触感もすぐに忘れてしまうのである。
そんな博物館の親玉、それも国立なのがみんぱく。
国立?
そんな場所には、箱物行政、ゼーキンで集めた世界の民具?おいおい、台湾のあの偉そうに並んでて、コレクションしてるのは、巨大な寂寞なんじゃないの。。。
なんて思ったら大間違い。素晴らしいのである。猛烈に素晴らしい。
国立民族博物館は、収蔵物、ヒトビトへの暖かな眼差し、リスペクトが詰まっている。
世界各地の資料館/民芸館だって、土地やモノへの愛着から建設されたのだろうけど、たいていの資料館は、失われようとするもの、失われたものを「しょうがない」「用はなくなった」で片付け(きっちりと!)、それらを整理整頓した場所になってしまってる感がいなめない。民具もなんだかしんなりしたり、うっすら埃をかぶり、相手にされずに拗ねてしまったといった寂しい陰影を纏ってる。
が、国立民族博物館は違う。
見捨てられたモノや普段あまり目に留まらないモノをきっちり並べて分類し、マニアックな視点や、並べ方を加え、磨き上げ、モノたちが強烈に輝きを放ってる。
新しモノ好きってのを最初から否定するつもりはないし、古いものへ関心が行く時間的空間的な余裕が、高度資本主義経済の今にないのは百も承知だ。でも、ボロッボロの空き家や、粗大ごみ、面倒見てもらえないお墓なんてものが放つ悲しいオーラっていうのは、同じような状況に陥った人間自身が放つじゃないかとも思う。やっぱりそれは悲しい。
世界中の中華レストランのメニュー
だから。。。現役バリバリの民具から、手垢まみれの、もう使わないでしょ。古いでしょ。と言われかねないものまでを、前後左右に関連付けたり、居場所を与えて意味や意義を伝える「みんぱく」の仕事は素晴らしい。
例えば世界中の弦楽器を並べたりする。例えば世界中のスプーンを並べたりする。
そんななんでもないものだけどいっつも手にするものをフルパワーで展示しているからこそ、道具の向こうで知らない人間が見え、常設展のアフリカからの人間の広がりや、航海者達が原始的な航法で太平洋中に広がっていた展示に強烈な説得力が与えられる。
そういった移動やらこれまでの人類の物語がインストールされていて、やがていつか死ぬ。。。。なーんてことを感じられるのである。ちょっと大げさだけど。
世界中を旅してアイヌ、琉球、日本という展示になったのも、自分の旅をもう一度振り返るようで面白かった。
見学を終え、博物館ならではの少し暗い空間から外に出る。これはまさに「胎内くぐり」である。一旦死んで俺は「みんぱく」に産み落とされたのだ。
ふふふ。ばーぶ、ばぶばぶなんてハイハイしながらみんぱくを出る(嘘)。
駅に向かうと太陽の塔がズドーン!
ったく、素晴らしいぜ。