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飛び込み営業スタイル多摩川テンカラ

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飛び込み営業スタイル多摩川テンカラ

911のちょい前の2000年頃、その頃は川崎にちらっと住んで、南武線で国立の営業所に通勤し、海外エクスプレスの営業をしていました。当時の営業レベルは話にならず、思いかえせば恥ずかしいことばかり。いいお客さんに助けられてばかりなひよっこでした。

競合の分厚い壁の前に阻まれ、大手の開拓は厳しいため、それらしき名前の会社、雰囲気のある工業団地を偵察し、手当たり次第に営業かけていたあの頃。。。。を思い出し、久方ぶりに南武線をふらふらし、夕方の短い時間だけれど、手当たり次第に営業をかけ。。いや、できる限り広範囲で魚を探り、本当に多摩川で魚がテンカラで釣れるのか、挑戦することにしました。

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が、秋川に比べると魚の気配が薄く、岸づたいに竿をフリフリあっちにフラフラ、こっちでウロチョロを繰り返しても反応なしの空振りばかり。。。

ようやく、ここにいなければ、多摩川に魚はいないよ。というポイントでしつこく竿を振ってようやく魚の反応を確認。そこでさらに何度もキャストして、ようやく小さなオイカワが釣れてくれた。

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なかなか新規のお客さんが見つからない苦しさやら、小さい貨物だけれど、新規のお客さんがアメリカに貨物を送ってくれたことを思い出しながらその小さなオイカワ一匹のみで、納竿。釣れてくれてありがとう!

食いバスの聖地へ

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食いバスの聖地へ

午前中の健康診断が思いの外早くに終わり、検査に時間がかかる以外の数値は悪くないようなので、気分が良く、釣り道具に加え、包丁や氷まで担いで、JR北海道・東日本パスで上野原に向かった。

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なんでわざわざ上野原に向かったかというと、バスやブルーギルをカルパッチョや酢の物、サムギョプサルにして食ったり、道端のイシクラゲを食ったりして最高な健啖隊という釣り名人がホームグラウンドにしているから。いやいらっしゃるから。とにかく、昔っから釣った魚を食っちゃってそれをブログや動画にアップする人って、生命力溢れててどれも大好きなんだけど、健啖隊さん隊長は、釣りができるだけでなく、博識な上に語彙力が豊富なので「伝える力」が強力なんだよね。

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さて、そんな相模湖上流部。餌のドバミミズを探すのに難渋したけれど、しばらく河原をうろちょろしていると、蚯蚓が湧き出す、油田ならぬ蚯蚓田を発見し、その近くでマス釣り仕掛けでバス釣りを始めた。

すぐに20センチちょいのバスが釣れ上がりキープしたけれど、その後が続かない。。。岸際で啄むようなアタリがあったので、粘って釣り上げるとヌマチチブちゃんだった。

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夕暮れ時にもう一匹あげたけれど撮影中にロスト。恐ろしいほど見えバスがいるけれど、ドバミミズには目もくれず、小魚をバシャバシャ追いかけている様子。お魚キラーで魚を捕まえて生き餌でやったらどうだろう。。。

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20センチ一匹では家に帰って料理!には少し物足りないので、コニャゴラ君に進呈して今回は退却。早いうちにリベンジしたいぜ。

秋川テンカラ

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秋川テンカラ

日原鍾乳洞の入り口の脇のキラッキラの沢にいたヤマメが気になって仕方がなかったが、奥多摩散策の帰り道、武蔵五日市でうまい蕎麦を食らってから、適当なところで車を止め、嫁は河原で読書、こっちはテンカラで小物を狙った。

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まだまだ毛針が大きいからか、ライズやアタックがあっても釣り上がらないことが多く苦戦する。多摩川の中下流は、魚のいる場所いない場所の濃淡が激しくなるけれど、皮がまだまだ綺麗なのに加え、やる気と小さな毛針さえあればどこでも魚が釣れるような印象を受けた。東京も捨てたもんじゃないなぁ。

甲府城

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甲府城

築城者 徳川家康/羽柴秀勝
築城年 1583年



場所

雨で木曽のイワナ釣りが中止になってしまったので、途中下車し、甲府駅前の甲府城を見物した。いや、現地の案内板と縄張り図を見たところ、甲府城の城域は甲府駅プラットフォームを含む中央本線をまたいでいるようだったので、駅前というより駅ナカの甲府城になるのかな?

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まずは甲府市役所あたりの商店街をぐるりと回って、水堀が残っている城の南から入城する。ゆったりとせりあがる石垣に加え、白塗りの櫓などが復元されている箇所もあり、知名度(個人的主観)に比してなかなか見ごたえがあり、素直に驚いた。巨大な忠魂塔が本丸の西に鎮座しており、アンバランスさは否めないが、立派な石垣や本丸の銅門あとから二の丸に続く、桝方と屈曲の連続は、ガキガキしてて見ごたえがある。武田信玄の陰にどうしても隠れてしまったりで、ノーマークだったのだけど、なかなかじゃないか。

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天守台下の稲荷曲輪で、近くの高校生がキャッキャしていたりして、放課後と城跡ってのは最強のコラボだなぁ、なんて思いながら中央線を越え、分断された甲府城の北の要、山手御門に向かう。

復元とはいえ、立派だなぁ。。。駅の南北にしっかりした遺構を残すなんて斬新じゃないか山梨県!なんて感心していると。。。。虎口の門の裏手で、地元の高校生カップルが、駅弁スタイルで抱き合っており、虎口ならではの不意打ちをくらってしまった。

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信玄さん、次回は躑躅ヶ崎館、要害山城にお邪魔します。餅でも食いながら待っててください。

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お、らしい建築!と思ったら、やっぱり丹下健三氏設計。こちらも城のそば。東京に戻る前、長野に出かける前(笑)、ぜひ、甲府に立ち寄りましょ!

甲府城と武田信玄は別物と考えたほうが良いのだけれど、着衣とはいえ、男の子があと少し体を倒せばまさに騎馬隊スタイル。甲州人には、武田軍の熱い血潮が21世紀の今も流れていることを目の当たりにし、後ろから槍で刺されないかとヒヤヒヤしながら、中央線で東に逃げ帰りました。

木曽イワナ

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木曽イワナ

魚より自分の方の釣り熱が上がってしまい、釣りという魔物に逆につられてしまっているここ最近。「梅雨明けが一番!」というお誘いを受けていた木曽に、テンカラ仕掛けをもって向かった。

始発で酷暑の東京を脱出し、ピーカンの魚食いの聖地を眺めながら、甲府、塩尻と乗り継いで木曽福島に到着したが。残念ながら雨がポツポツ降り始めてしまい、役場のバスで分け入って行くと本降りになってしまった。東京から去った梅雨が、木曽にはまだ居座っていた。

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クーラーいらずな涼しさはありがたいが、川が濁りすぎると話にならないテンカラ釣りなので、恨めしい雨。友人の会社のテンカラ名人の社長さんと、濁りの薄い川に入渓した。

山の上の高原地帯なため、牧歌的な日本の山里の景色なのにもかかわらず、思いっきり竿を振ってイワナを狙えるのが面白い。。。。

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小指サイズはリリース。

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幾つかの川に入るが、釣果が出たのは、今夜のBBQ会場にもなっている友人の家の裏の川。木曽のテンカラに慣れ、毛針をきっちり浮かせられるようになった日没前。「これだ」と思える「巻き」や流れ込みを責められるようになると、20投に1匹くらいは魚の反応がある。

釣り上げた魚は骨の二度焼きをしてBBQにて完食した。

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翌日。降っていた雨が大雨になり、釣り上げた川は茶色の濁流となっていた。残念ながら朝マヅメ狙いは中止。もう一度子の夏中に来て、梅雨明けの木曽イワナと対決したいなぁ。。

城ヶ島 ウルルン釣行記

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城ヶ島 ウルルン釣行記

健啖隊の動画を見ているうちに釣った魚を食う!がやりたくなり、先日も出かけた城ヶ島を再訪した。夏は運び屋仕事が少なかったり、やっても儲からないのでここ数年は旅人していることが多かったけれど、今年は嫁さんの仕事が忙しいこともあって、主夫業に勤しんでいるけれど、のんびり気ままなこういった生活を続けると、「男は狩りに出かけて家に何かを持ち帰らなければいけない」なんていう思いがフツフツと湧いてきます。男の悲しいところです。

で、本日の釣りは体力の消耗が著しそうな炎天下の釣りではなく、夕まずめ狙いの省エネフィッシング。日が傾き始めた4時頃城ヶ島にたどり着き、慣れない釣りを始めた。

渓流では、そこそこのクラスのマスもごぼう抜いてきたシーバスロッドは、大海原を前にするとなんとも心もとないし、足元に大量に群がる魚は、落としたサビキに目もくれない。けれど、釣り始めて30分頃から、投げ入れたコマセにサーっと駆け寄るように魚が反応し始める。お!これは行けそうだ!

その正体は、釣りたかったアジではなかったものの、見目麗しいウルメイワシ。隣の釣りにいちゃんと効果的な連携コマセ攻撃で、入れ食いになった。

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せっかく群れが来ているのに、足元のロープにサビキを絡めてしまったりと、手返しの悪さ、下手さがモロに出てしまったが、最終的に小さなザルがウルメで満杯になった。

「オイルサーディンの材料揃えておいて!」

と、まだ職場なお嫁さんに画像付き釣果速報を入れる。

ほんの少し男らしい仕事ができて満足。日が沈んだ直後の富士がきれいだった。

弁天山 / Bentenyama Lowest Mt. in Japan


新井城

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新井城

築城時期 不明
築城者 三浦氏


場所

箱根の坂を越え、相模の国から関東進出を始めた北条早雲に対峙したのが、相模の名族三浦氏。諸城を落とされ、相模の名族であった三浦氏も最後は半島の端の端、この新井城まで追い込められ、3年の抵抗ののち、落城。

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現在の新井城は、城域のほとんどを東大の地震研究所と油壺マリンパークで占められてしまっていたけれど、内の引き橋と呼ばれるバス停から程ない場所で、半島ががっつり堀切で断たれ、城内側の一部には土塁の高みがしっかり残っていました。

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浜に出る道沿いに土塁が残っており、標柱も立っていたけれど、半袖半ズボンという軽装であったため、少し土塁を登って城内をチラ見しただけで退却。海岸沿いをぐるりと回って半島の北岸に出たかったけれど、台風のウネリが残っていて歩道にテープが貼られてしまっており歩けず。壮絶な最期を遂げた三浦道寸に申し訳ないだらしない城散歩でした。

今回の訪問での見所は、やはり「内の引き橋」の周辺の遺構の状況と、台風の波を避けるかのように停泊していた油壺湾のヨット。お城の現況はアレだけれど、三崎城や浦賀城に拠点がうつされるまでは北条水軍の拠点だった新井城の、面目躍如な軍船、いやヨットの数でした。

三崎城

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三崎城

築城時期 不明

築城者  三浦氏


場所

三崎城は三崎港から程ない、三浦市役所がある台地に築かれた城。京急三崎口からのバスの中でチェックした情報からすると、お城があった場所に市役所以外にも小学校や市民センターなんかが建設され、パリッとした遺構はなさそうで期待はしなかったけれど、まあその通りだった。

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三浦半島も久里浜を過ぎれば、畑が広がるかなりのんびりした景色になるのだけれど、三浦半島随一の港である三崎港とその周辺だけは、久里浜や横須賀のように、崖まで家が建ってるような民家や商家が密なエリア。まあ、お城の遺構が少しだけでも残り、案内板が置かれているだでも良いと思わなくちゃね。

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城の北の比較的状態の良い土塁と空堀の名残と思われる箇所を眺めていると、地元の方とすれ違う。すれ違いざまに「ここの土塁は立派ですね」なんて声をかけ る。こういったとき、大抵は「きょとん?」とされるのだけれど、その方が、歴史好きな方だったようで、「本丸の案内板は見られましたか?」「はい」「そう ですか、この先に近くの会津藩士のお墓がありますよ」なんて教えてくれた。

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その会津藩士の墓所に向かうと、案内板があり

「ここ城山に陣屋を設け、城ヶ島安房崎に大筒三門とのろし台一門を設け〜」

との記載があった。今よりも遺構の残存状況が良かった三崎城跡地は、幕末には、この三崎城に会津藩兵が駐屯していたのか。。。

今、吉村昭氏の「間宮林蔵」を読んでいるのだけれど、ロシアの南下やアメリカの捕鯨船の来航のドタバタと、それに対応した台場の設置や兵の配置が、幕府の威厳や財政をぐらつかせたのはよく知られたことだけれど、会津藩を始め、日本全国からこんな所にまで送られ、在勤中に亡くなった方もいたということに驚く。そして、徳川に尽くしたことで幕末に辛酸を舐めた会津藩(また会津か。。。)と藩士の苦労が身にしみたのでした。関東の端っこまで来てよかった。

浦賀城

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浦賀城

築城者 北条氏康
築城年    16世紀後半


場所

バスを間違え、城は城でも明治期の砲台である観音崎砲台にたどり着いてしまった。せっかくだから砲台見物し、だらだらと海沿いを歩いて浦賀城に向かった。彼方には房総半島の低い山が伸び、船で漕ぎ出せばあっという間に安房や上総の海岸に辿り着けそうで、狼煙があればコミュニケーション取れそうな距離。京葉線の車窓から眺める東京湾とは少しちがう景色を楽しんだ。

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Google Mapなどでチェックし直すと、浦賀城は浦和の入江の出口の小山に築かれている。浦賀城が乗っかる小山は、見事!というより、危ねえ!とワナワナしちゃうような海蝕崖で切り立っており、攻めるもののやる気を削ぐに十分な面構えだった。お城の下の土地の頼りなさからすると、往時は直接波に現れていたかと思う。

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叶神社で虫よけリングを買い求め、参拝してから社の脇の石段を登る。急峻な海蝕崖は天然の要害そのもの。這い上がるような石段を登り終えると削平地が現れた。

台風の大風で枝が折れてしまった桜を手入れしているおじさんがおり、「社を建てたり、石碑が立ったりで元のお城と違う箇所もあるだろうけど。。」なんて言いつつも、おじさんは説明してくれる。「昔は下の神社の神輿をここまで担ぎ上げたんだ!」なんて教えてくれたり、わずかに開いた眺望の良いところに案内してくれて、灯明台があった岬、あれが千葉の金谷。。なんてガイドを買って出てくれた。

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もっと見晴らしをよくしたいらしが、急斜面のため伐採も容易じゃないとのことです。

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岬の突端に灯明台が見える。

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頂上まで登って僅かながらに削平さた箇所を確認したりする程度のお城訪問は、ものの数分で済ませてしまったシンプルなものだったけれど、おじさんのウェルカムな空気と飾らない案内は気持ちが良かった。そういえば、この浦賀城の真下に、ペリーが船を停泊させたらしいが、おじさんとの会話の中には、ペリーの「ぺ」の字も出てこなかった。

おじさん、冷たい炭酸水ありがとうございました。

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